入院中のノートから

私の入院中のノートから

入院中、左手で書いたノートが数冊あり、その抜粋を書いていこうと思う。

病院や関係者への理不尽に近い悪口などもあるが、個人名(けっこうこれが多い)があるものやあまりに酷いもの以外は出していく。大病をして心細くなった患者の不定愁訴の一部だと大目に見ていただきたい。


20110710 17:40

自宅パソコンでマウス操作中動作不良。

マウスの故障かと思ったが人間の故障だった。右手麻痺。

勤務先に病状を電話、通話開始まもなくろれつが回らなくなり、脳梗塞あるいは心筋梗塞を覚悟。

119通報。換え下着など鞄に入れようとしたところで下半身不安定に、崩れるよう座り込む際に室内テーブルの脚破損(⇒台脚接合部完全に壊れ退院後廃棄)。

かろうじて玄関解錠しマンション開放廊下まででて救急隊を待つ。この時点で歩行不能、ものにつかまっても立っていられなくなる。

 

 マンションの管理人さんの誘導で救急隊到着。日大板橋まで行くか朝霞台中央にするか救急隊から聞かれたが近場の方が通院しやすいと考え、また最寄り駅からも近い朝霞台中央を選択、搬送される。

 

日曜の夕刻でもあり、専門医(朝霞台中央病院の脳外科Dr.は五人)ではなく当直医の診察、脳梗塞と診断されICUへ。

 

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このとき血液の固まりを溶かす「tPA」は使われなかったのではないかとあとで思った。静脈注射やカテーテル治療などの記憶がないことと、専門医が直ちに駆けつけてくれたか不明なためである。「tPA」について知ったのはリハビリ病院をも退院して自宅でネットを見てからであるから、改めて確認はしていない。板橋日大でも日曜夕刻に脳外科専門医の当直があるかは運次第だろう。

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 心電図・脈拍・血圧などの数値とグラフが、枕元のオシロスコープ風のモニターにピコピコと音を立てて映し出される。たまにピーッと高音になり画面上部のシグナルが緑から黄色へと変化。見ると血圧200超。ああこの音はこういう意味だと私が理解する頃には、もうDr.もナースも私のモニターは見ていない。ICUには他に3~4人クランケがおり職員の関心・注意はそちらへ。なるほど、ここにいる中では私は軽症なんだ。命に関わることはないなとちょっと安心。

 

いくつかの同意書などの書類に左手でサイン。気づけば右手の力はなく、存在感すらあやふやになっていた。

 

20110711

ウトウトしながら(点滴中は眠くなる、何か精神安定剤的なものが入っている?)、たまにバイオのモニターを見る。いつか夜が明けている、発症後12h。一般病室へ移動とのこと。

 

 Dr.から、点滴および経口投薬による治療のみでオペなどはしないとの話。現在、右半身麻痺、この回復、それも ある程度の、には相当の長期、まずは半年が予想されるとのこと。現在の法律では急性期病院と回復期リハビリ病院とは峻別されているため、この病院にとどまることのできる60日以内にリハビリ病院を選択し転院を要するとの話が病院側よりある。

 

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このあと当時の勤務先の人間が入れ替わり立ち替わり見舞い・様子見にくる。勤務先としても最短でも6か月復帰が望めないとなると、処遇に窮しているのがわかる。まだ倒れて丸一日経っていないのに、肉体的生命の危機は回避できても、社会的生命は絶たれる覚悟を早くも必要とされる。

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14:00からリハビリの先生方が顔見せ。PT.OT.ST.全員女性。明日よりリハビリ開始とのこと。

 MRI検査、閉所恐怖的パニック発作的現象。

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20110712~20120723のノートには見舞いに来てくれた人々の名、担当脳外科Dr.チームのDr.名、ナースおよび介護職員の名などが記載されている。また勤務先の取締役常務から親身な気配りをいただき、リハビリ病院見学や転院についても行って下さるとのことで感謝に耐えぬ旨記載している。実際、常務には大変お世話になり、いくら感謝してもしつくせるものではない。

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20110724

もし 死後の世界があるとして

私は 私の知っている

誰に出会えるのだろう

         誰も知らない

あの世では この世にまして

寂しきや

知りぬるひ人の 一人とてなく

まだ死ねぬ

つまらない人生だったかもしれない

しかし

うらむほどに にくき誰もなく

願わくば光あれと 旅立てるなら

それは いいことなんだろう

 

20110726

この2.3日、眠れない。

おまけに胃が痛い。

ご飯だけ粥に戻した。

体力がない上に体調が悪い

少し体温のバランスが狂ったとき

例えば冷えた左の二の腕を

暖めようとしても 右手は動かないのだ

何かが悪くなると 加速度的に

次々と悪くなる。歯止めがない。

ナースでは隔靴掻痒。

体調の微調整には

体力と自由に動く身体が必要だ。

 

20110727

 

動かない部分が

凝り固まりつつあって

運動を欲して叫んでいる

動かない

身ぶるいしても ふるわないのだ

 

このまま一生 と  いう恐怖

それでふるえるなら

 

20110728

病室移動。ICUの近くになり機械音が響く。隣のベッドから素晴らしく芸術的な鼾。見事に一睡もさせてはもらえない。24:00~25:00 1階に降りてみるとロビーソファーのあちこちで寝ている者が数名。それぞれ何らかの理由で避難してきたのだろう。次の機会に利用してみるか。

 

今日は3階ナースステーション前待合コーナーで夜明かし。昨日なら胃の痛みで、こうはいかなかった。車椅子が使えなかったら部屋から脱出できなかった。

そう考えると幸せな体験なんだろうな。

 

朝、ご飯を食べてから寝ようと思っていたが、体格のよい人特有のひとつひとつの動作の大きさとひびきわたる呼吸音に、断念。

 

20110729

この何日か、深夜 強い衝動に駆られ 大声を上げて右手で暴れたくなる。動悸も異常に速くなり、心は悪い方へ悪い方へと動く。

 ベッドから出て車椅子で3階B病棟半周、深呼吸。やっとおちつく。

 

転院する病院は、部屋から出られるだろうか?

私は閉じ込めに弱そうだ。正常な神経を保てるだろうか?

 

もし、私が自殺したら、直接の要因は、閉じ込めその他によりわずかに残された自由奪われたことだろう。今、私は回復を目指している。まだ死ねぬ。

 

20110731

昨日から右足、膝から踝にかけて異様に冷たく、毛布を借りたが変わらず。おしぼりタオルでマッサージをするように数度拭く。ずいぶんよくなった。Dr.「麻痺足の回復期は違和感がありますよ」その通りだろう。

 

リハビリの進み具合が遅い。特に喋りの回復、手も、足も。

 

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このあと般若心経写経。間違えていないから何か見ながら書いたのだろう。さらに病院に対する批判が続く。差し障りもあるので、白文字で記入する。

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20110801

勤務先の常務と同僚に一切の手続きを行ってもらい、リハビリ病院2カ所見学。


 竹川病院はリハビリ専門病院で、病室・待合室・廊下などホテル風たたずまい。もとは高島平にあったのだがこちらに移転、新築して5年ほどの新しさ。

 長汐病院は旧知の病院だが、リハビリ病棟は初めて見る。意外と充実。PT17名OT17名ST2名、部屋も車椅子用に広くなっていて竹川には劣るがなかなかよい。


 けっこう迷ったが、竹川を選択。


 死に行くときには他には何も考えずにただ、世話になった人々に感謝すること。枕頭に何人いても往くのはひとり。だれもいなくてもひとり。ないものを求めるのではなく、あるものに感謝しよう。


 しかし少しは悟りのなんたるか、平常心のなんたるかを、囓ったつもりでいた私のなんたるザマ。あわてふためき、自力で他力を思い出そうとし、求不得に苦しみ絶望し、何一つわかっていなかったことを思い知るのみ。

20110806

なにか急に思い詰める。


同時に四肢のどこか一部、今朝は右手親指の感覚が鈍くなったように感じ、麻痺が依然として進行しているのではないかと底知れぬ不安にとらわれる。

20110808

病室内にトイレのある病院は要注意。

リハビリ病院は急性期病院つまり普通の病院とはまるで異なるものだった。


 廊下にトイレや洗面所がある、普通の病院では、夜中でも部屋から出てトイレに行くのは自由だった。ついでに自販機で飲み物を買ったり、で顔を洗うのも自由。
 ところが、病室にトイレがあるこの病院では、夜間、廊下に出る患者はいない事が原則。刑務所のような点呼管理体制であった。
 おまけに、下着からパジャマ、タオルなどすべて貸与で、洗濯物も出ないのが原則だから、洗い場・干し場・洗濯機・乾燥機に類するもので、患者が使えるものは一切無し。階段もすべて夜間は施錠され、昼間も病院職員と療法士付き添いでのリハビリ時以外は使えない。


 たしかに、麻痺患者のリハビリ用の施設なのだから、自由に水道を使用させると溢水の恐れは十分あるし、少なくとも普通の洗面所より廊下に落ちる水の量は多いだろう。階段での事故も容易に予想できる。

しかし、夜間ナースステーション前などで夜明かし自由だった病院から転院した身には、この管理体制はこたえるものだった。

この時期のノートには、この管理体制に対する悪口雑言罵倒批判が延々と書き綴られている。

退院後の弱気のときの愚痴を少々

心情20121007

 会社を完全に離れ、他に仕事もできそうにないとなると、親族は母のみ、その母も「アイリス清心園」という老人ホームにて老後を養っているのみ、他の親族もない私は、今後たった一人で「死」と直面し続けていかねばならない。
 しなければならないことを無理にでも仕立て、さもそれが大変かのように回避したりサボったりしながら日を送る。部屋の掃除、庭の手入れ、爪切り…その気になればすぐにでも終わることを、週間・月間・年間と予定を立てて、しかも遅滞する。
 それらをやっても、対外的には何ら変化はない。今までやっていた仕事のように、対人接触・報酬・社会への何らかの貢献などは一切ないのだ。
 しかし何かをしなければ、「生きがい」がない。生きる希望がない。生きる意味が僅かでもほしい。
 

 自分の意思と関わりなく拘束されて死ぬことは絶対にいやだ。昨年2011年7月、脳梗塞で右半身不全となり、MRI検査を受けた。まだ右手を自分の意思で持ち上げることができない状態であったのに、検査のために数分間身体が検査用自動可動ベッドに固定される、そのことが怖くてたまらないのだ。健常時なら何でもないことが、不安でたまらない。ベッドに拘束されること、エレベーターに乗ること…。エレベーターのドアが閉まるとそれだけで閉じ込められた気になる。健常時の私は閉所も高所も平気だった、むしろ好きだった。東尋坊のような断崖か好き、品川駅前のプリンスホテル17階建ての屋上パラペットを何もつかまらずに歩き、京急のホームにいる乗客に手を振ることが大好きだった。なのに発症後しばらくは、パニック症候群のようにすべてが不安になった。


脳梗塞で、老化で、すでに自由とは言えない体になっている人間を、「ご自身の安全のため」などの表向き理由、内実は万一の際の責任を避けるという管理上の理由で、僅かに残った自由を制限するということは、被制限者に重い刑罰を与えることである。

アイリス清心園にいる母が、先月転倒して明野中央病院に入院、大腿部骨折の手術とリハビリを行ったが、車いす使用時にブレーキを固定せず立ち上がろうとすることがあったため、ナースが安全ベルトで立ち上がりを防いだそうだ。つまり拘束具で車いすに身体を固定したわけだ。
なお、母は頭脳明晰で、老いてなお衰えず、脳トレや各種パズルを得意とする人間で、私が思うにJOKEとして大腿部骨折を忘れたふりをして見せようとしたというのが真相だろう。
ところが病院はその冗談にほほえみではなく刑罰を返した。本日、平成24年10月16日(火)病院から電話があり、ここ数日、母に不穏な動きがあってアイリスとの話し合いで退院となったと短く通知してきた。”不穏な動き”を問うと、タオルを首に巻き付けたり、ベランダから飛び降りようとしたと言うのだ。それは拘束されたことへの抗議か、拘束されたことでパニック症候群を引き起こしたかに違いないと病院に告げ、一応ともかく礼を言って受話器を置いた。
私自身、竹川病院に転院したとき病室から出てはいけないと言われてパニックになった。

今、この文を書いているのに眠気に襲われた。退院後のこの一年、毎日8時間近く睡眠をとっている。健常時、あの不規則な生活での平均睡眠時間はおそらく5時間弱。今は寝過ぎるくらい寝ているのに眠い。やる気が薄れ睡眠欲だけは増して衰えて穏やかに逝くのか。ならばそれもいい。

心情20121017

健常者の頃、退職は より自分に合った次の仕事へのステップであり、もともとモラトリアムな人生の中のモラトリアム、劇中劇の自由さ、楽しい部分があったことは否めない。
 脳梗塞となり、歩くこと、手を使う作業、電話応対他「話す」行為、それらすべてが不全である今、再就職先があるとは思えない。「次の職場」という言葉が私の辞書から消えたのである。この退職は私の社会生活の終わり、少なくとも大きな一区切りである。

 死というものについて、近づいたなと感じるとき、それは今までのように重いものではなくなっていた。人の命が地球より重くても、私の命はスイカほどのものだろう。死ぬ際に物理的苦痛が伴わないのなら、今の私はいつ死んでも素直に受け入れられる。決して死にたいのではない。生きたいと思う強さが弱まり、どちらでもいいという感じなのだ。だから好ましくない日々が続くよりは、静かな死を望む。穏やかに楽しく死を迎えたいだけなのだ。

 普通の生活をしていれば、いろいろすべきことしたいことが積み重なって、死と向き合うことは少ない。何もなせなくなった今、向き合っているのだが向き合う必要もないくらい近しいものになったんじゃないかな。

 一番恐れているのは「不本意な生息」。安らかさ、静けさなどからほど遠い死。これ以上、身体が不自由になったり、何らかの理由で意思に反する何らかの拘束をされたり、痛みや苦しみを伴うことなど。それが確定し、再び自由に散歩できないのであれば、私は速やかな死を望む。

 なぜか眠気が抜けない。歩いているうちはともかく、帰って座るとすぐ眠くなる。朝昼晩、時間関係なしに。こうやって眠ったまま死ねればいいのに。もう眠い。書きたいことはうんとあり、歩きながらいろいろ思いついたりしているが、座ると手が動かず、眠気だけが増してくる。まだ外が明るい時間なら、また歩くしかない。

 母が亡くなったら、もはや誰一人「私」を生きる目安のひとつにしている人間はいなくなる。ひとりとして親類すらない。そして自分自身、生に対する執着はない。あとはきっかけと方法。

 今のこの体では、どこかで働くことなど思いもよらない。もし私が採用担当者であれば、私を採用することなど一顧にも及ばない。
 これ以上回復が望めないなら、後は年金と貯蓄、その年金も10年以上早いリタイアと10数年という未納期間が影響し微々たるもの。未納期間は職探しや年金・保険は自主納金の職であった期間である。六五歳まで働き、未納期間分の7割以上を回復、88パーセント以上の支給率予定だったのだが、55歳リタイアでは60パーセント支給率がやっと(国民年金は六〇歳まで納めても・だ)。将来受ける年金額より生活保護の金額が遙かに勝る。

 なにか少しでも生活費を稼げる方法はないのだろうか。少しでも仕事ができないか。まだ自由に散歩ができる体なのに。



心情20130410

風邪を引いた

健保の狭間

珍しく というか 生まれて初めて

風ごときで医者になどとふと思ったが

保険がなかった


風邪 といっても鼻風邪ていど

会社勤めの頃なら休むことは考えられない程度

デイサービスを休んだ

もちろん自分が原因で風邪を流行らせたくないのが第一だが

かなり弱気であるのは事実

発病前なら想定できないことだ


老いていき

なにか軽い病いとも癒えない病い

そうこの風邪程度のことで気を病み

他の病を誘い

死ぬこともできずに泣き暮らす

そんなことにはなりたくない


死に至る

自ら死に至る過程に

苦痛がないのなら

機会を逃したくはない


弱って弱って

思考力も体力もその他の能力も

見る影もなくなってからじゃないと

死ねないのか



生きる屍に等しくならないと

屍になれないのか


その惨めさの中では死にたくない


機会を逃したくはない