(途中から個人事情を綿々と書いてしまった。後日別項に移す予定。)
現在、我々人間が(ここでは私ぐっちー自身が)求めているものは何だろう。このサイトを作っていることからもわかるとおり、情報知識の収集蓄積と取捨選択、己に興味深い情報の公開と伝達共有。まとめていうと情報の選択共有時代である。ここで選択されなかった情報も、他者が選択する可能性が少なからずある。かつて始皇帝が行った焚書坑儒のように、情報伝達の媒介物と情報発信者をすべて消滅させ、ある情報を完全に消滅させることは現代では不可能に近い。あれだけの権力をふるい始皇帝が焚書坑儒で消し去ろうとした儒学ですら消えることなく現在も力を持っている。
紙がない時代の情報量と、現在の人口の半分は情報発信基地局時代の情報量とでは、情報の価値が違うかもしれない。どんな有為な情報でも見いだせなければないのと同じ。WEBページなどは、よほどのお気に入りでなければ流し読み・拾い読み、それも見出しの。次々と飛び込んでくる情報の洪水は、電車の中で聞こえる見知らぬ乗客の会話のように、瞬間に忘れ去ってしまうもの。
それでも人は情報を発信する。自分の存在を知って欲しいため?どこかにいるまだ見知らぬ友に出会うため?滝沢馬琴や夏目漱石も同じように考えていた。彼らの情報は売り物だったので、読者に彼らの発した情報の幾ばくかは伝わっただろうことが、売上という無機質でわかっただろう。現在の私のようなWEB発信者はほとんどたれ流し。だれか少しでも読んでくれてるだろうか、と願いつつ。「ワタシハココニイル」
現代は?人任せ社会?いや、安心して任せられるような人はいないだろう。
利己主義社会? そうだとも言えなくなってきた。物も情報もシェアすることが増えてきた。
無気力社会? 昔から多いか少ないかのの違いだけで無気力な者はいた。なぜ無気力になるのか。末法思想や終末感ではない、人生に目的が持てない、これはある。国が、世界が、人類が目的を持っていない。そうかもしれない。
弱者優遇社会、 日本型社会主義的社会、
国家社会主義、この3つは言わんとするところは同じだろう。はたらく意欲がなくても生存できる、保険、年金などの制度(よれよれだが)。私の場合67歳から国民・厚生両年金が出るのだが、合わせても年間総額100万円程度にしかならない。一番多くかけられる給料が格段に多くなる時期に、脳梗塞でリタイアしたためと、若いころの放浪生活、失業しても貯金を食いつぶすまで働かなかったことなどのツケだからしかたがない。その上、年金支給額は物価上昇には緩やかにしか対応しない、すなわち目減りする。それじゃ生活できないかというとそうでもない。いよいよ切羽詰まれば生活保護もある。私の場合、75歳までは公的年金と個人年金でなんとかなる。
平和社会、戦争になっていないだけ。それもいま戦争しても負けるだけだからできない?!
格差社会、何の格差?資産?愛?幸福度?情報量?頭脳?知識量?今時学歴じゃないだろうし。
ヲタク文化オタク社会。ヲタクとは世界・物体・事象などの特殊な一部について深い愛着と価値観、趣味性や収集癖を持つ者のことであり、マニアとほぼ同義だが、マニアより趣味性が高く社会性が低いものと解している。これは多様性社会、独自性社会の究極の形のひとつだろう。「○○は俺の嫁」という表現は、対象物に対する深い愛着と生涯かけてもよいという決意?までは現していないか(笑)ww草。うむ、逝ってよし。
多様化社会、独自性社会、この二つの言わんとすることは同じだろう。その昔、キルケゴールニーチェヤスパースハイデガーサルトルの実存主義の時代は、人間の一般大衆化・没個性の時代で、マスメディアから流されるは情報統制に近い画一的情報でますます均質化していたから、No1よりOnly1になれと実存せよと呼びかけていた。ところが今は、情報の種類も量も大量で、人生の目的になりそうな情報も雑多だから目的もつかみ得ず、各人の価値観も違うので没個性でないはずだが虚無感が漂うので個性豊かには見えず、取り替え可能な部品としての一般大衆であることだけは、各企業の就業マニュアルの充実でその昔より進んでいるのだ。だから独自性を持てと言う発言は、十分独自性を持っていると思っている現代人には無意味である。その他、別項「さまざまな思想」のどの概念も、現代人の雑多複雑な価値観で単純画一な無目的をずばりと解説することはできない。
だからとりあえず目的を持とう。人類として進化しよう。これがぐっちーの意見であり、別項「人間の進化予測」の意味するところである。
現代人の価値観の多様性については、ネットで「大事なもの」を検索するとわかる。
大事なもの
お金、 家族、 自分の健康、 自由、 頭脳、 判断力、 時間、幸せと思う気持ち、 愛 、前向きに生きること、 生きがい、共有、僅所有、歴史、哲学、主義、理性、恋人、友人、隣の奥さん、えるたそ
冷戦体制以降のグローバル化の時代
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
国家として「戦争の放棄」をする。
これを堅持し、万一の際には、これに殉じる。それこそ、この条文の全き体現ではなかろうか。
そのような国家が、仮に消滅したとして、理性ある人間としてそれを惜しまない者は、いないのではないか。少なくとも、その国の消滅に後ろめたさを感じない者はいないだろう。
そしておそらく、どのような形にせよ、必ず復活するであろう。仮に復活しないにせよ、そのような国家が存在したという事実は、人類の誇りとして歴史上、永遠に語り継がれていくのではないか。
そのような憲法を、時の流れで変えるということは、人間でいえば変節するということである。
陰で笑われることは同じにせよ、馬鹿正直なロマンチストとして笑われるのと、変節極まりないマキャヴェリアンとして笑われるのとを、同じことだと思うか、大いに差があると思うかだが、私はそこに、歴然とした違いを感じる。
尊敬される死も、軽蔑される死も、同じ死ではないかという考えには、同意できないのだ。
「自分の国を守ろうともしないのか」という蔑視は、非暴力不服従という憲法9条より古い思想を知らないからか。いわれない蔑みには、無知への憐憫しか感じない。
「子供っぽい現実味のない理想論にしか過ぎないじゃないか」という指摘には、堂々と理想を掲げる我らへの羨望をすら感じる。
「アメリカが作ったものじゃないか。自らの主張ではない。」という方。そんなに他国を、あるいは他人を馬鹿にするものではない。また自らを卑下するな。誰が唱えても、だれが作っても、良いものは良い。それを選択したのは自分だ。自信を持て。
「戦争を憲法で否定したから、他国から何をやってもいいと馬鹿にされる。戦争をしないためにも、ちゃんと戦争ができる国でなくてはならない。」という方。「核兵器を持っていないと持っている国から馬鹿にされる。戦争をしないためにも、ちゃんと核兵器を持たなくてはならない。」と主張する子供と同じ。
憲法に徹すること。それだけで軽蔑は尊敬に変わり、揶揄は称賛に変わる。