つれづれなるままにひぐらしぱそこんにむかひてこころにうかぶよしなしごとをかなにゅうりょくできいぼうどをそこはかとなくうちつくればあやしうほどものぐるほしけれ
愚考録はまさに私の徒然草。日頃いろいろわき上がるとりとめない思いをとりとめておこうと思っている。内容があやしうほどものぐるほしい(怪しくて気違いじみた)ものなのも本家と同じ。何かを考えつくごとに、また記載した考えが変わるごとに更新するつもり。今ここにしかない情報もあるかも。
人間の進化予測
進化の最終形態の別パターンとして宇宙系統樹農園の管理者
「エディプスの恋人」
果てしなき流れの果に
2015年に着手しておくべきこと
神はサイコロを振らない。垢はサイコロを振る。マズローの欲求階層説。ワタシハココニイル。
私の哲学。
神はサイコロを振らない
世界とは、人間が住み暮らしているこの宇宙のすべてであり、およそ人間が知覚できうるものすべてであるとするなら、神はサイコロを振らない。サイコロを振るものがあるとしても神の爪の先にある垢ぐらいのもので、その結果は(先の定義の)世界に影響を与えない。量子という原子の構成物の位置が不確定でも、それが原子を構成している以上、原子によって構成されている世界に何の変化もないのだ。ある中学校の1生徒が、風邪で欠席しても、そこの地区の学校数に変化はなく、その学校が所在する国の名称が変わることはない。立脚点が大きく異なるからである。
垢はサイコロを振る
量子は物質ではない。波か単なるエネルギーか、とにかく動いていてつかまえようがない。原子より遙かに小さいこの世界ではサイコロが振られる。
ビッグバンのはじめまだ物質はなくエネルギーがはじけた。物質がはじけたのなら、一定の力が働いたのだろうから、均一な物質が均等に拡がりはじめたはず。力の偏重がないのでおそらく水素原子のみしか創られず、あったとしても今ほど多様ではなく、拡がっていっても引力も同等だからバランスがとれて衝突もない。核融合も起こらない。もちろん星もできないのだから星団・銀河はない。宇宙は一面、均質な水素の雲だったろう。
エネルギーの波がはじけたのだから、ある場所では集まって陽子・中性子となり、さらに集まって原子を創り引力で衝突し核融合が起こり重い原子も作られ、やがては星・星団・銀河を構成する。ある場所には波は来ず引力も発生しないから何かを引き寄せることもない。ダークマターがあると言われているが、それも一種の力だろうから同じような波である。
物質未満の世界で、神の爪の先の垢がサイコロを振ってくれたから、今の均質ではない銀河・宇宙の広がりとなり、私たちは美しい星空を見ることができるのだろう。
マズローの欲求階層説なるものがある。
これは人間個々の欲求の成長進化を現すとともに、社会全体のそれをも現すとされる。20世紀「所属と愛の欲求(親和欲求)」まで満たした人類社会は、21世紀の現在「自尊欲求」の段階にあるとされ、自己の価値を社会に認めさせるべく生きているとされているのだが、それを達成したとして(ワタシハココニイルと認められたら)、次の「自己実現」さらに「自己超越」とは一体具体的にどうすればいいのか。
これは私の人類の進化予測に乗っかるべきだね。
なぜ完成もしていないのに矢継ぎ早に考察の断片をあげるのか?
時代に追いつかれそうになったから。自分が失速・停止してきたのかもしれない。ミニマム主義にせよアニメ文化にせよ言葉ができる以前から先行していた。が。決して模倣しているのでも追随しているのでもない、と表明するため?くだらんね。(オワタ)
いろんな思想や哲学を批判している、私自身は、心とは何かどうあるべきかと思っているかというと、ここに書くのが恥ずかしいほど、簡単で単純なことしか思っていない。
まず、神やほとけ、イデアや天、ハイアーセルフや上位自我、守り本尊や守護天使、ご先祖様の霊などの、人間を超えた存在は、人間が考えだしたものであり、それを信じる人間の心の中にしか存在しない。なぜなら、私が、感知したり、見たり触ったりしたことがないからである。その点、経験論、帰納法の立場でたまに止揚、もっとたまに演繹。ただし経験的演繹は、つまり実証可能な推論は行う。怪力乱神を語らず、世界は有限か無限かは何を基準にするかで異なり、精神の存在は信じるが、霊魂については不明であり、精神と霊魂の区別も考えない。
無意識の領域、エスまではあるのではないかと思うが、集合的無意識のうち、時代を超えるものやその人の中にある地球(人間社会の範囲)を超えるものについいては否定する。
以上2点から、社会構造を除き、自分を動かすものは自分しかないと確信する。
人生とは、選択し決断することである。決断したことの結果についての責任の所在は、自分以外にはない。
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小学2年生の時、祖母が亡くなり、その葬式で僧侶が読む経に、子供らしい好奇心が湧き、多少暗記して、法事の時など坊主に付いて経をあげたりもした。浄土真宗だったので、経はいわゆる正信念佛偈である。親鸞の教行信証、顕浄土真実教行証文類の行巻の末尾所収の偈文、「帰命無量寿如来……」である。教行信証総序「ひそかにおもんみれば…」も暗唱した。
青年期になり学校の教科として倫理・哲学を学び、子供の頃覚えたこれらの意味も少しわかりかけた。その頃、テレビによく登場していた薬師寺管主、高田 好胤の「ひろくひろくもっとひろく、これが般若心経、空のこころなり」に興味を持ち、般若心経解説本などを何冊か読んだりした。なお、後で述べるかもしれないが、高田師のこの言は、魅力ある調子といい簡潔さといい、優れたものであるが、惜しいかな間違いがある。
20代からはフロイド・ユング、発達心理学に興味を持ち、また道(タオ)や禅にも興味を持ちはじめたが、ほかに興味あることが多く深くは入り込まなかった。キリスト教関係は、聖書、解説本、三浦綾子、遠藤周作など少しあさった。
その後、こういった思索から離れた期間は、少なくなかったが、断続的にさまざまな思想をみていった。特に禅語録や無門関講話で禅を、やや詳しく知ったとき、少年青年期にテレビで見た高田 好胤を思い出し、高田師は法相宗管長だったが思想的には禅の人だったなと思った。
高田 好胤は、昭和41年から15年間、テレビのレギュラー番組を持っていたが、その前後もよくメディア出演されており、今の五十代より上の年齢層には、なじみの深い方だったのでないか。私は、高田師の話をテレビで何度かリアルタイムで聞いており、そのときはなんとも思わなかったが、あとから思い出すたび、聞いてて良かったと思った。
高田師は昭和24年南都七大寺のひとつ、薬師寺の副住職になって以来、薬師寺再興に努めた。修学旅行の生徒達への分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」として名をはせ、著作も多数、法話は薬師寺のみならず三越劇場その他でも行われた。 昭和42年管主就任。薬師寺は昭和51年金堂再建以後、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。私が、十代の終わり近くに、初めて訪れた薬師寺は、東塔のみが奈良時代の面影を残し、金堂再建が始まっていたのかもしれないが、寺院としては淋しいものだった。今では、金堂の両脇に東西の五重塔を持つ世界遺産である。
高田師の「ひろくひろくもっとひろく。これ般若心経、空のこころなり。」は言葉の響きも良く、私もこの言葉でだいたいの、空・禅・道などを知ることができた。
空についての私の所感は、空とはとらわれないこと、こだわらないこと。そのこだわらないことにこだわったら、空ではない。こだわらないためには、所有しないこと。これが己のものだと思ったとき、それが物であれ思想であれ愛であれ、こだわりとらわれてしまう。欲するのは良い。欲しなければ人は生きていけない。ただ「もっと」を期待するな。欲は本能、「もっと」は煩悩である。空だから知りたいが、もっと知りたがってはいけない。空だから食べたいが、もっと食べても無駄。所有が少なければ煩いも少ない。
この私の空についての所感と高田師の言葉を比較してみると、「ひろくひろくもっとひろく、これ般若心経、空のこころなり」の「もっと」が困る。しかし語呂がいいので、まあこれでもいいかとも思っている。なんとも優柔不断な私である。 おい、決断はどうした?
私は,自らが将来病気に罹り,これが不治であり,かつ,死期が迫っている場合にそなえて,私の医療に携わっている方々に向けて,以下の要望を致します。
① 私の疾病が,2名以上の医師により,現在の医学では不治であり,かつ,すでに死期が迫っていると診断された場合には,死期を延伸するためだけの治療は一切行わないでください。
② 前項の場合,私の苦痛をやわらげる処置は最大限に実施してください。そのために投与した麻薬などの副作用によって死亡時期が早まってもかまいません。
私が①記載の状態に陥ったときは,担当医師及び担当福祉関係者とも,私の意思にしたがい,私が人間としての尊厳を保ったまま安らかな死を迎えることができるよう配慮してください。
私は,この文書による私の要望を受容し,これにしたがってくださる方々に深く感謝申し上げます。その方々がこの要望に沿って行われた行為の責任の一切は私自身にあります。
警察,検察の関係者におかれましては,私の担当福祉関係者及び担当医師の方々が私の要望に沿った行為を行ったことをもって,犯罪捜査や訴追の対象とすることのないよう,特にお願い申し上げます。
この文書は,私の精神が健全な状態にあるときに記したものです。したがって,私が健全な精神状態にあるときに撤回しない限り,その効力が存続するものであることを明らかにしておきます。
2017年11月4日
終末期の医療・ケアについての意思表明書
(リビング・ウィル)
私が終末期となり、意識を失うような状態におちいったり、あるいは、たとえ呼びかけには応じても意識が朦朧としている状態になったときには、以下のようにしてください。
もし、私が自分の力で呼吸ができなくなったら、人工呼吸器をつけないでください。
状況により人工呼吸器がつけられ、これで呼吸をしている場合、人工呼吸器をつけてから四八時間たっても、私の自発呼吸が戻らなかったら、人工呼吸器を外してください。
たとえ、自発呼吸がある場合でも、もし意識を失ったり朦朧となってから四八時間たっても、意識が戻らなかったり朦朧状態が続いていたら、点滴も栄養補給もやめてください。
もし、私の意識状態に明らかな回復徴候がみられる場合には、さらに二四時間待っていただき、その時点で、私の意識が戻っていなかったり、朦朧状態が続いていたら、点滴も栄養補給もやめてください。
意識の判定は、厳密にしていただく必要はありません。呼びかけても声を出して答えなくなったら意識はなくなっていると判断してください。
また、点滴と栄養補給をやめた後、私が自分の力で飲み食いできる状態にないのなら、無理に飲ませたり食べさせたりしないでください。
ましてや、鼻管を入れたり、胃瘻(胃ろう)を作ったりは、絶対しないでください。
そうなったら、昇圧薬も輸血も人工透析も血漿交換などもやめてください。
もし、私が苦しがっているようであり、その状態を緩和していただける治療をしてくださるなら、喜んでお受けします。ぜひ行ってください。
その場合でも、昇圧薬や脳圧低下薬などの延命のための治療はやめてください。
私の命を長らえるために努力をしてくださっている、お医者さん、看護師さんや医療スタッフの方達にも、心から感謝しています。努力してくださっている方達には、たいへん申し訳ありませんが、どうか、私の意思を尊重して下さい。
私はこの終末期医療についての私の意思表明書を、意識も清明で、書いている内容を十分理解している状態で書いています。どうか、私の意思を尊重してください。
2017年11月4日