『般若心経』は一般には600巻に及ぶ『大般若波羅蜜多経』の心髄を収むといわれているが、『大般若波羅蜜多経』(『大般若経』)及び『摩訶般若波羅蜜経』(『大品般若経』)からの抜粋に『陀羅尼集経』(7世紀頃)に収録されている陀羅尼(梵:dhāranī、呪文の一種)を末尾に付加したものである。般若経典群のテーマを「空」の1字に集約して、その重要性を説いて悟りの成就を讃える体裁をとりながら、末尾に付加した陀羅尼によって呪術的な側面が特に強調されている。
現在までに漢訳、サンスクリットともに大本、小本の2系統のテキストが残存している。大本は小本の前後に序と結びの部分を加筆したものともいわれている。現在最も流布しているのは玄奘三蔵訳とされる小本系の漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。(ウィキペディアより)
以下、玄奘本般若心経の逐語訳を、私ぐっちーが、試みる。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経 「Prajñā(般若)-pāramitā(波羅蜜多)-hṛdaya(心)」
「仏説」とは釈迦ゴーダマシッタールダ(以下、単に釈迦とする)が語った言葉であるということ。
「摩訶」は東南アジアからインドで一般的に使われる言葉で、「高い」ということ。例えばインドのマハラジャは「偉大な王」。例えば英語圏のシンガポールで買い物するときに「高いよ(少し値段を下げて、安くして)」という意思表示には、「エクスペンシブ」ではなく、「マハーマハー」という。「高い」「高貴な」「大きな」「偉大な」「すごい」「膨大な」などの意味になる。日本語でマハーが使われているのは「摩訶不思議」くらいかな。
「般若」はんにゃ、サンスクリット語: प्रज्ञा, prajñā,プラジュニャー; パーリ語: पञ्ञा, paJJaa,パンニャー、漢訳音写:斑若、鉢若、般羅若、鉢羅枳嬢など)は、一般には智慧(ちえ)といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧をいう。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、分別的な「智」としての「若那」(jñāna, ジュニャーナ)と対照される形で、諸法の実相である空と相応する無分別の「慧」として強調されてきた。
波羅蜜(はらみつ)、あるいは、玄奘以降の新訳では波羅蜜多(はらみた、はらみった) (巴: पारमि, Pāramī, パーラミー、梵: पारमिता , Pāramitā, パーラミター)とは、パーリ語やサンスクリット語で「完全であること」、「最高であること」、を意味する語で、仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す。到彼岸(とうひがん)、度(ど)等とも訳す。
「心」サンスクリット語でフリダヤ。心臓を意味する言葉で、「(生命の)中核」を意味するとともに、真言(咒)のこともいう。
「経」サンスクリット語でスートラだが、サンスクリットの般若心経Prajñā-pāramitā-hṛdayaにはスートラという語はない(つまり般若咒)。「経」は中国で訳すときに付け足された文字。
もともとスートラは、古代インドでベーダ理解のための補助学の綱要を暗誦用に圧縮した,独特の散文体による短文の規定,およびそのような文体で編纂された綱要書。ベーダを伝承する学派の中で用いられたが,後にはそれ以外の哲学・学芸の学派もその教理の綱要書にこの文体を用いたので,それらの作品もスートラと呼ばれる。原義は〈糸〉で,花を貫いて花輪とするように,教法を貫く綱要の意となったと考えられる。仏教もこれにならい釈迦の教法を文章にまとめたものを総称してスートラ(パーリ語ではスッタsutta)と呼んだ(ただし,仏教の〈経典〉には文体的にはスートラ体といえないものが多い)。
観自在菩薩
観音菩薩(かんのんぼさつ、簡体字:观音菩萨、繁体字:觀音菩薩、梵: Avalokiteśvara Bodhisattva , アヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァ)は、仏教の菩薩の一尊であり、北伝仏教、特に日本や中国において古代より広く信仰を集めている尊格である。「観世音菩薩」(かんぜおんぼさつ)または「観自在菩薩」(かんじざいぼさつ)ともいう。「救世菩薩」(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的には「観音さま」とも呼ばれる。
梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)という語の合成語との説が現在では優勢である。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになる。
鳩摩羅什の旧訳では観世音菩薩と言い、当時の中国大陸での呼称も、観世音菩薩であった。これには、『観音経』(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の趣意を取って意訳したという説がある。また、中央アジアで発見された古いサンスクリット語の『法華経』では、「avalokitasvara」となっており、これに沿えばavalokita(観)+ svara(音)と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。なお、現在発見されている写本に記された名前としては、avalokitasvaraがもっとも古形である。観音菩薩というのは、一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。
玄奘三蔵以降の新訳では観自在菩薩と訳しており、玄奘は「古く光世音、観世音、観世音自在などと漢訳しているのは、全てあやまりである」といっている。「観自在」とは、智慧をもって観照することにより自在の妙果を得たるを意味する。また衆生に総てを畏れざる無畏心を施す意で施無畏者、世を救済するので救世大士ともいう。
日本語の「カンノン」は「観音」の呉音読みであり、連声によって「オン」が「ノン」になったものである。
般若心経は観自在菩薩の業績を語りたいのではなく、観自在菩薩は一修行者の例にしかすぎない。すなわち、般若心経を読もうとしている「私、あるいはあなたをA氏とする」そのA氏の意味で用いられているだけである。したがって訳としては「ある探求者が」でもよい。
行深般若波羅蜜多時。
至高の真実の知恵について深く思索しているとき。
照見五蘊皆空。
照見とは<物事の本質・実相を明らかに見きわめること。また,その教え。
五蘊(ごうん) PAÑCAKKHANDHA:パンチャッカンダ
五蘊は、人間とは何か、自分とは何かを現すと思われる五つの要素の塊、
色 しき 肉体、 受 じゅ 感覚、 想 そう 知識、 行 ぎょう 欲動、 識 しき 認識。
五蘊は「生命とは何か」「私とは何ものか」という命題に対する仏教の答。「『私』を分析してみると五つの塊になる。それ以外はない」。pañca(パンチャ)は「五」、khandha(カンダ)は「塊」「集まり」のことで、五蘊とは「五つの塊」という意味。
仏教の特色は、物事を明確に分析して理解すること。「私」を分析して見つけられた五つの塊とは何かというと、rûpakkhandha (色蘊)、vedanâkkhandha (受蘊)、saññâkkhandha (想蘊)、sankhârakkhandha(行蘊)、viññânakkhandha(識蘊)の五つ。塊といっても山のようにじっと止まっているのではなく、滝のようにずっと流れ続けてどんどん変化していくもの。人々は変化し続けるこの五種類の塊に「私だ」と固執して苦しんでいる、としている。
1.rûpakkhandha (ルーパッカンダ:色蘊<しきうん>)
「私」とは何かと考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは、”自分の”顔や肉体である。梵語でルーパ (rûpa) 、色と漢訳されるが、姿形のことで、言い換えれば「私という物体」「私の体」のことである。蘊は塊、私の肉塊である。肉体・物質。
2.vedanâkkhandha (ヴェーダナーッカンダ:受蘊<じゅうん>)
「私」とは何かの探求思索で、二番目に見つかるのは自分の感覚、感じ方。物事の見方や感受性。梵語ヴェーダナーは「感覚」「感じること」。その感覚の塊が自分だということ。
目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、身体で感じる、人間はこれら五つの感覚器官にそれぞれの対象が触れることによって常に何かを感じている。五感、感覚。
3.saññâkkhandha (サンニャーッカンダ:想蘊<そううん>)
自分とは何かの三番目に見つかるのは梵語サンニャーの塊です。サンニャーは知識のようなもの。受蘊で、感じたものが何かということ。人は同じことを経験してもそこで頭に浮かぶものや言葉は各人の教育や知識、興味の有無、自分なりの優先順位で、まったく別のものになる。その個人的記憶の塊、知識の塊が想蘊である。これも自分らしさであると誰もが思っているだろう。概念・知識。
4.sankhârakkandha(サンカーラッカンダ:行蘊<ぎょううん>)
「自分とは何かで次ら見つけたのは梵語サンカーラである。行と漢訳されているが、欲や性に限らないリビドーといってもいいかもしれない。私たちは常に「何かをしたい」と思っている。そしてその思った何かをしながら「次にあれをしたい」。あれをするときは「これをしたい」と思う。何かをすると同時に「それで次はこれ、それで次はこれ」ときりがなく、完全に落ち着いている状態はない。その自分なりの欲や、その優先順位なども自分を現すものかもしれない。決心、意志、欲動。
5.viññânakkhanda(ヴィンニャーナッカンダ:識蘊<しきうん>)
五番目はヴィンニャーナ(識)。識とは認識である。ある哲学者が言った「我思う、故に我あり」と認識している我、これが識蘊である。認識・記憶。
皆(かい)「すべて」の意。
空(くう)
空は、サンスクリット語で、シューニャという言葉の訳語。空虚、空っぽ、空間などではない。
一般に存在しているものは、条件によって成り立っているもなので、 そのもの固有の実体は「ない」ということを表している。
空とは「本質的なものではない」ということ。
実体がないから空(くう)であり、変化し続けるから空(くう)であり、 因果によって存在するから空(くう)なのだ。
苦の根本は五蘊にあるが、五蘊そのものはみな空(くう)であり、そのことを正しく理解、照見できれば一切の苦厄から解放される。
別の解釈では、空(くう)は、「移ろいゆく世界をつかさどる法則」。世界万物は永遠に変化し続けている。その流転法則が空である。ひょっとしたら、超ひも理論の、紐の産み出す波のエネルギーが空なのかもしれない。物質も物質以外のものも、万物は空から生じ空へと帰る。
さらに別の解釈では、空(くう)は、「とらわれない、こだわらないこと」。その「とらわれない」という言葉にとらわれたら既に空ではない。
空については、様々な僧侶や学者たちが、様々な解釈をもって説明している。
般若心経は大乗仏教、つまり多くの人々を救うための仏教の経典だから、多種多様な人々の苦悩を解決する具体的な考えを提示したために、解釈も多様となったのだろう。
照見五蘊皆空 しょうけんごうんかいくう、
(観自在菩薩は) 人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて
度一切苦厄。
度(ど)は、解説書では「渡す」という意味とされているが、ぐっちーは「済度」から「救う」または「解放する」と採る。
一切(いっさい)、「すべての」。
苦(く)
苦は、「思い通りにならないこと」こと。仏教では、苦を分類する。
四苦八苦(しくはっく)
苦は、苦しみではなく、思い通りにならないことをいう。
仏教では、根本的な四つの苦を「四苦」、四苦に愛・怨みなどの感情の苦を含めた「八苦」という 四苦、 生・ 老・ 病・ 死、八苦のプラス四
愛するものとの別れ 愛別離苦(あいべつりく)
怨み憎んでいるものに会う 怨憎会苦(おんぞうえく)
求める物が得られない 求不得苦(ぐふとくく)
五蘊(ごうん)が思うがままにならない 五蘊盛苦(ごうんじょうく)
厄(やく)は、「わざわい」。
度一切苦厄(どいっさいくやく)とは、 全ての苦しみ・厄(わざわい)からこころを解放した、ということ。
つまり
舎利子
舎利弗(しゃりほつ、梵:Śāriputra シャーリプトラ、巴: Sāriputta サーリープッタ)は釈迦の十大弟子の一人である。
シャーリー(サーリー)は母親の名前で、ある特定の鳥を意味し、「鶖鷺」などと漢訳されるが、いずれの鳥であるかは判然としない。プトラ(プッタ)は「弗(ホツ)」と音写し「息子」を意味するため、漢訳では舎利子(しゃりし)とも表される。「シャーリーの子」の意。
釈迦弟子中において、智慧第一と称される。舎利弗と目連(摩訶目犍連マハーモッガラーナ)を特に二大弟子と呼ぶ。
『般若経』など大乗の経典では、声聞乗(śrāvakayāna)を代表する長老の仏弟子として登場することが多い。『般若心経』の舎利子は、この人物のことである。
マガダ国の王舎城(ラージャガハ)北、那羅陀(ナーラダ、現ナーランダー)村出身で裕福なバラモンの家に生まれる。幼名は優波帝沙(ウパティッサ)といった。隣村の目連と親友の仲。目連とともに、当初はサンジャヤ・ベーラッティプッタに師事した。
釈迦の弟子のアッサジ(阿説示)比丘と出会い、そのおだやかな表情と落ちついたものごしを見て尋ねた。「あなたはどんな修行をしたのか。」 アッサジはこう答えた。「我は釈迦の弟子なり。師は、この世は偶然でできているのではなく、原因があって結果があると説く。」
射利師はこれを聞いたとたんに預流果(悟りの最初の段階)に達したと伝えられる。目連を連れて釈迦に弟子入りすると、サンジャヤ仙人の他の信徒250人も、彼ら二人に従い、サンジャヤ教団を離れ釈迦に弟子入りした。その後すぐに最高の悟りを得た舎利弗は釈迦の信任も厚く、時には釈迦に代わって法を説くこともあったという。釈迦の実子である羅睺羅の後見人にもなった。
また提婆達多が釈迦教団から500人を引き連れて分裂させ象頭(ガヤ)山へ行ったが、彼が追いかけて弟子衆を引き戻した。その際、彼がやってきて説法した時に起きたブロッケン現象に弟子衆が驚き、引き戻る契機になったともいわれる。
釈迦よりも年長とされ、目連と共に仏教教団の後継者と目されていたが、釈迦の入滅に先んじて病没。目連が竹林外道(執杖梵士)によって迫害されて瀕死の状態になったを見て、「一緒に出家し、また仏弟子となり証悟したので、一緒に滅そう」と言ったともいわれる。釈迦の許しを得て、故郷に帰り彼自身が臨終の床においても母をはじめとする親族を仏教に帰依させたという。彼らが釈迦より先んじて滅したのは、釈迦の入滅に遭遇するのが忍びなかったともいわれるが定かではない。
般若心経でもそうであるが、舎利子という呼びかけは、経文を聞いてる者の代表への呼びかけであるから、経文を聞く者はみな、「ねえ君」という、自分への呼びかけとして受け取るべきである。
色(しき)は、五蘊の1つで「形あるもの」。物質、肉体、物体。
空(くう)は、「実体がないもの」または、「移ろいゆく世界をつかさどる法則」もしくは、「こだわらないこと、とらわれないこと」
色不異空(しきふいくう)「形あるものは実体がないことと同じこと」
または「形あるものは移ろいゆく、目に見えるから移ろいゆく様も見える」
もしくは「形あるものにこだわってはならない、肉体や物質にとらわれてはならない」
空不異色(くうふいしき)「実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在する」
または「移ろいゆくその一瞬の姿を形としてとらえているだけなのだ」
もしくは「存在することにこだわらなければ物質は存在しているともいえる」
色即是空(しきそくぜくう)「形あるものはそのままで実体なきものであり」
または「形あるものとは移ろいゆく世界の一瞬を切り取った画像や影絵のようなものであり」
「形あるもののようにとらえられるということはそれがエネルギーまたは波動だからであり」
もしくは「形あるものはとらわれてはならないもの、こだわってはならないもの」
空即是色(くうそくぜしき)「実体がないことがそのまま形あるものとなっている」
または「移ろいゆく世界の一瞬一瞬を、現実の形ある世界だと認識している」
「エネルギーまたは波動だからこそ形あるものとしてとらえることができる」
もしくは「こだわってはならないものは形あるものである。」
受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)
前述の通り、五蘊(人間を構成する五つの要素)は色・受・想・行・識から成る。 いま、色(しき)について詳しく説明したので、残る受想行識(じゅそうぎょうしき)についてだが、これらも、色(しき)と、まったく同じことなのである。(つまり色即是空など全文4単語の色を受・想・行・識に入れ替えても同じである)。
舎利子 是諸法空相
シャーリプトラよ(ねえ君)
このように諸法は空相なのだ
空をどう考えるかにより
この世の中のあらゆる存在や現象には実体がないことがあらわれている
この世の中のあらゆる存在や現象は移ろいゆくもの、流転するものであることを示している
この世の中のあらゆる存在や現象に執着してはならないことがあらわれている
諸法(しょほう)は、あらゆる存在や現象。
相(そう)は、 人相、手相の相と同じで、ありさま、様子、表相の意。本当の姿、実体の現れ。
すべてのものは、条件によって常に変化して、同じ状態でいることはない(諸行無常しょぎょうむじょう)。それゆえに、ものごとにそのもの固有の実体というものはない(諸法無我しょほうむが)。
不生不滅不垢不浄不増不減 ふしょうふめつふくふじょうふぞうふげん
不生不滅(ふしょうふめつ)
生じることもなければ、滅することもない。
実体が無いのだから何も生じることはない、実体が無いのだから滅するものもない。
またはエネルギー保存法則。宇宙全体のエネルギーの波は新たに生じることも滅することも無い。
もしくは何事にもとらわれずこだわらなければ、生も滅もない。
不垢不浄(ふくふじょう)
汚いとか浄いとかいうものではない。
実体が無いもの、移ろいゆくもの、エネルギーの波などにその概念はあてはまらない。
こだわらなければ汚清は関係ない。
不増不減(ふぞうふげん)
増えることもなく減ることもない。
実体が無いもの、移ろいゆくものにその概念はあてはまらない。
宇宙全体のエネルギーは増減しない。
こだわらなければ増減は関係ない。
是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき)
これ故、空の中に色はない
(これも空の解釈により次のようになる)
「この宇宙をあまねく網羅している「空くう」という法則の中では、物体もそれ固有の実体はないのだ」
または「このように移ろいゆくものの現れにしかすぎないこの世界で、確実に存在する肉体や物質などというものはないのだ」
「このようにエネルギーの波に満ちた世界に、エネルギーの波の凝縮以外の物質はない」
もしくは「ものごとにとらわれなければ、こだわらなければ、肉体や物質などないに等しくなる」
無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界
(むじゅそうぎょうしきむげんにびぜっしんいむしきしょうこうみそくほうむげんかいないしむいしきかい)
(空の中に色、)受、想、行、識(五蘊)は無い
眼、耳、鼻、舌、身、意(六根)も無く、
色、声、香、味、触、法(六根の対象となる色)も無い
眼界から意識界まで(六根のとらえる世界、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界)も無い
無受想行識(むしきむじゅそうぎょうしき)五蘊は無い、つまり物質、感覚、知識概念、決心欲動、認識記憶の中には存在せず、
無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんい)六根、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官も無い
無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)六根の対象となるものも無い。つまり眼で見る色(形・物体)、耳で聞く声(音)、鼻で嗅ぐ香、舌で感じる味、身体で感じる触(感)、意識で感じる法(ものの成り立ち・決まり事)も無い。
無眼界乃至無意識界 (むげんかいないしむいしきかい)限界から意識界までも無い
眼界(げんかい)とは、色(しき、目に見える形)を眼で見て感じること。 同様に、
声(しょう、耳で聞こえる音)を耳で聞いて感じることを「耳界(じかい)」
香(こう、鼻で嗅げる匂い)を鼻で嗅いで感じることを「鼻界(びかい)」
味(み、舌で味わえる味)を舌で味わうことを「舌界(ぜつかい)」
触(そく、身体で触る感覚)を身体で触り感じることを「身界(しんかい)」
法(ほう、この世の中のあらゆる存在や現象)を、意(い、心)で感じることを「意識界(いしきかい)」という。
これらすべての存在もまた無いということ。
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽むむみょうやくむむみょうじんないしむろうしやくむろうしじん
無明もなければ無明が尽きることもない、老死が無いのだからその老死を尽くすことも無い
無明(むみょう)は、悟りに対する無知。
苦の代表である「老死」は原因をさかのぼると「無明」にたどり着く。(十二因縁)
十二因縁(じゅうにいんねん)
十二因縁は、苦(く)の原因追究に関する仏教用語で、十二縁起(じゅうにえんぎ)とも言う。なぜ思い通りにならないのかを考察したもの。原因から見ていくと、
無明 むみょう ものごとに明るくないこと。無知なこと。迷いの中にいること。煩悩の根本。
行 ぎょう 物事がそのようになる力。
識 しき 好き嫌い。選別。認識。
名色 みょうしき 肉体と心。実際の形と、その名前。
六処・六根 ろくしょ・ろっこん 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意。
触 そく 六つの感覚器官に、感受対象が触れること。
受 じゅ 感受作用。六処、触による感受。
愛 あい 渇愛。
取 しゅ 執着。
有 う 存在。”ある”ということ。
生 しょう 生まれること。
老死 ろうし 老いと死。
となる。
だから、苦である老死をなくすには、生をなくし、有をなくし…無明をなくせばよいことになる。
この無明は無い。またそれを尽くす無明尽もない。(十二縁起の残り項目も同様に)老死も無ければその老死を尽くすことも無い。
無苦集滅道(むくしゅうめつどう)
苦(く)、集(じゅう)、滅(めつ)、道(どう)は、四諦。
・苦(く)、この世は思い通りにならないことばかりである
・集(じゅう)、この苦を苦と思うのは、多くの迷いの集合した結果である
・滅(めつ)、この苦の原因である迷いを滅すれば、心はこよなく安らぐ
・道(どう)、その理想の状態に到るために、正しい道がある(→八正道)
四諦(したい)、または四聖諦(ししょうたい、梵: catvāri ārya-satyāni , チャトヴァーリ・アーリヤ・サティヤーニ、巴: cattāri ariya-saccāni, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理(諦))とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である「苦・集・滅・道」のこと。「此縁性」を実践的観点から言い換えたもの。
四諦(したい)とは、4つの諦たいを示す。これらは,「苦集滅道」と略称される。
苦諦(くたい) - 一切は苦であるという真理
集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理
釈迦はこの四諦のそれぞれを「示・勧・証」(知る・実践する・確認する)の「三転」から考察し(三転十二行相)、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとされる。
釈迦はさとりを得た後、ヴァーラーナスィーの鹿野苑において、初めて五比丘のために法を説いた(初転法輪)。この時、四諦を説いたと言われ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。四諦は釈迦が人間の苦を救うために説いた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ(応病与薬)と言われている。
釈迦は初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道は、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することが、苦の原因である。この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法が八正道である。
パーリ語経典長部の『沙門果経』では、四諦は、沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)が、戒律(具足戒・波羅提木叉)順守によって清浄な生活を営みながら、「止観」(瞑想)修行に精進し続けることで得られる「六神通」の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている。
四諦 四つの真理
苦諦 思うがままにならないこと
苦諦(くたい、梵: duḥkha satya , ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、人間にとってはこの世界の一切が苦であるという様態の真相、現実を指す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて「八苦」という。
愛別離苦あいべつりく - 愛する対象と別れること
怨憎会苦おんぞうえく - 憎む対象に出会うこと
求不得苦ぐふとっく - 求めても得られないこと
五蘊盛苦ごうんじょうく - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。
集諦 苦には原因がある
集諦(じったい、じゅうたい、梵: samudaya satya , サムダヤ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)または苦集諦(くじゅうたい)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって表れたものである、つまり「苦には原因がある」という真理のこと。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれる。「集じつ」とは招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。
集諦の原語は samudaya(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には貪欲や瞋恚しんに、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛かつあいをいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も、苦の根本原因であり、苦集諦である。
滅諦 苦は滅する
滅諦(めったい、梵: nirodha satya , ニローダ・サティヤ、巴: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ、苦滅諦, くめつたい)とは、「苦は滅する」という真理。
道諦 苦を滅する方法・実践修行がある
道諦(どうたい、梵: mārga satya , マールガ・サティヤ、巴: magga sacca, マッガ・サッチャ、苦滅道諦, くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。
八正道 「正」は偏らないこと、こだわらないこと、ありのまま素直に
八正道(はっしょうどう、巴: Ariya-attangika-magga, アリヤ・アッタンギカ・マッガ、梵: Ārya-aṣṭāṅgika-mārga , アーリヤ・アシュターンギカ・マールガ)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れている(かたよらずまっすぐな)ので正道といい、聖者の「道」であるから「聖道」(梵: ārya-mārga )と言う。
正見 正しく知ること
正見しょうけん(巴: sammā‑diṭṭhi, 梵: samyag-dṛṣṭi )とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。
業自性ごうじしょう正見(巴: kammassakatā sammā‑diṭṭhi) - 業を自己とする正見。
生きとし生けるもの(巴: sattā)は、 業(だけ)を自己の所有とする(巴: kammassakā)
業(だけ)を相続する(巴: kammadāyādā)
業(だけ)を(輪廻的生存の)起原、原因とする(巴: kammayonī)
業(だけ)を親族とする(巴: kammabandhū)
業(だけ)を依り所とする(巴: kammapaṭisaraṇā)
十事正見(巴: dasavatthukā sammā-diṭṭhi)
1.布施の果報はある(巴: atthi dinnaṃ)
2.大規模な献供に果報はある(巴: atthi yiṭṭhaṃ)
3.小規模な献供に果報はある(巴: atthi hutaṃ)
4.善悪の行為に果報がある(巴: atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko)
5.(善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi mātā)
6.(善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi pitā)
7.化生によって生まれる衆生は存在する(巴: atthi sattā opapātikā)
8.現世は存在する(巴: atthi ayaṃ loko)
9.来世は存在する(巴: atthi paro loko)
10.この世において、正しい道を歩み、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(正しい教えを)明かにする修行者とバラモン、そして悟りを開いた者は存在する。(巴: atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā
pavedenti)
四諦正見(巴: catusacca sammā-diṭṭhi)
苦諦についての智慧(巴: dukkhe ñāṇaṃ)
苦集諦についての智慧(巴: dukkha-samudaye ñāṇaṃ)
苦滅諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhe ñāṇaṃ)
苦滅道諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ)
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。
この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。
正思惟 正しく考え判断すること
正思惟しょうしゆい(巴: sammā-saṅkappa, 梵: samyak-saṃkalpa
)とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出離(離欲)」とはパーリの原文では「nekkhamma」で、世俗的なものから離れることを意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。
出離思惟(巴: nekkhamma saṅkappa)
無瞋思惟(巴: abyāpāda saṅkappa)
無害思惟(巴: avihiṃsā saṅkappa)
正語 正しい言葉で語ること
正語しょうご(巴: sammā-vācā, 梵: samyag-vāc )とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。
正業 正しい行い
正業しょうごう(巴: sammā-kammanta, 梵: samyak-karmānta )とは、殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。
正命 正しい生活
正命しょうみょう(巴: sammā-ājīva, 梵: samyag-ājīva )
「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、如法な生活それが正命であることをあらわす。簡潔にいえば、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って、人として恥ずかしくない生活を規律正しく営むことである。
正精進 正しい努力
正精進しょうしょうじん(巴: sammā-vāyāma, 梵: samyag-vyāyāma )とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。
正念 正しい思念
正念しょうねん(巴: sammā-sati, 梵: samyak-smṛti ) 四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」である。
正定 正しい瞑想
正定しょうじょう (巴: sammā-samādhi, 梵: samyak-samādhi ) 正しい集中力(サマーディ)を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。
無智亦無得以無所得故 むちやくむとくいむしょとくこ
智も無く、得ることも無い
もともと得られるべきものは何も無いからである
智慧が大事だというけれど、その智慧にこだわっているうちは、まだ智慧ではない。また、その智慧を得たと思ううちは、まだ智慧を得ていない証拠だ。
得ようとすべき物も、仮に得たとしてもそれを受ける自分も、本来は無い。
空は実体が無いものだから、そこには智も無く得るものも無い。得る所無きを以ての故なり、得るべきものも無いからである。
または、移ろいゆく世界には知識も無いしそれを得ることも無い、ものを得ることに意味がないからである。
エネルギーの波の中に智の概念や、得る、所得の概念はないのだから。
もしくは、どれだけ知識があるとか智慧があるとかにこだわってはいけない、こだわらなければ苦は無い、所得無き故を以て苦も無し。
菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙 ぼだいさったえはんにゃはらみったこしんむけいげ
菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに心にこだわりが無い
菩提薩埵(ぼだいさった)ンスクリット、ボーディ・サットヴァ(बोधिसत्त्व [bodhisattva]) の音写は、仏教において一般的に悟り・成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者のことを指す。省略して菩薩ということも多い。
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 、「智慧の波羅蜜」に 依るゆえに
心無罣礙(しんむけいげ) 心に何のさまたげもこだわりもない
無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃 むけいげこむうくふおんりいっさいてんどうむそうくうぎょうねはん
こだわりが無いゆえに、恐れも無く 転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れて、ついに、なにものにも揺らぐことのない静かで安らかな心の境地にたどりつく。
三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提 さんぜしょぶつえはんにゃはらみったことくあのくたらさんみゃくさんぼだい
過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
完全なる悟りを得るのだ。
三世(さんぜ)は、過去・現在・未来。
諸仏(しょぶつ)は、正しく目覚めたものたち。
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)般若波羅蜜多によるが故に、
得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)阿耨多羅三藐三菩提を得た。
阿耨多羅三藐三菩提サンスクリット語 anuttarasamyaksaṃ bodhiの音写。仏教用語。
最高の理想的な悟りのこと。無上正等覚。一切の真理をあまねく知った最上の智慧(ちえ)。真理を悟った境地。生死の迷い等、あらゆる煩悩を取り払い(漏尽)、苦を滅し(苦滅)、一切を平等に正しく観ずることができた境地を指す。他の宗教でも見られる通俗的な表現を用いれば、これは「他我の区別が消失した、至福の境地」ということになるが、一時的な生理的変調ではなく、戒律と瞑想・自己分析を通じて、理知的かつ習慣的・持続的なものとしてこれを達成していこうとするところに、仏教の特徴がある。
故知般若波羅蜜多是大神咒是大明咒是無上咒是無等等咒 こちはんにゃはらみったぜだいじんしゅぜだいみょうしゅぜむじょうしゅぜむとうどうしゅ
故に知るべし。般若波羅蜜多は、これすなわち偉大なる神の真言、これまさしく明らかなる真言、
これまさにこの上なき真言、これすなわち比べるものなき真言。
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
のうじょいっさいく しんじつふここせつはんにゃはらみったしゅそくせつしゅわっ
すべての苦、思い通りにならないことを取り除くことができる、うそいつわりの無い真実、それ故に説こう般若波羅蜜多の咒を。
すなわち咒を説いて曰く、
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか
この部分は咒・真言・マントラ。サンスクリットの音写であり、中国でもわざと漢訳せず、意味を説明しないでおく部分。
サンスクリットのままにしておくことで神秘性を持たせたり、呪文のような効用を期待する面もあるが、自国語に訳すと意味が限定されるので訳さないという面もある。
私の好きな抄訳を記載する。
往けるものよ往けるものよ、彼岸に往けるものよ
彼岸にまったく往けるものよ
悟りよ、平安あれ