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六祖壇経

『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖・慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。最も古い写本は『南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經』と名づけられる。『六祖大師法宝壇経』とも、単に『壇経』とも言う。

唐代の初め頃、地方長官の韋據(いきょ、據の字は手偏のかわりに王偏・Unicodeでは璩)の求めに応じて、大梵寺において行った説法をおもな内容とする。書き留めたのは弟子の法海である。
『壇経』の主題は「見性成仏」である。それを語る、慧能が六祖となるまでの逸話が興味深い。五祖弘忍の弟子たちへの問いかけに応じて、新しい白壁に筆頭弟子の神秀が書いた詩に「莫使染塵埃」(塵埃に染さしむること莫かれ)とあったのを聞いて、読み書きできなかった下男の慧能は人に頼んでその隣に詩を書いた。その中には「何処有塵埃」(何処に塵埃有らん)とあった。つまり、一般的には心を清めて悟りに達すれば、塵など気にかからなくなると考えがちだ。もはや塵にとらわれることがないと解釈する。しかし、慧能の考えでは、それではまだ心の中に塵を認識するものが残っている。それも捨て去っていったところで、始めてどこに塵があるのか、あるのはだたそのものだけじゃないかという境涯に達する。それに気付くのが見性成仏ということである。様々の汚れは妄想により存在するので、妄想を止めれば、そのものが仏の世界なのだという思想である。『壇経』においては、その思想が明確に(中国禅の典籍にしては、という但し書きが付くが)語られている。

南方禅(頓悟禅)は『六祖壇経』の教義を基盤にしている。というよりは、慧能の弟子の神会がその宗旨をもとに、慧能の説法の記録だった『六祖壇経』を編修したという説が有力であり、後の禅宗の発展に大きな影響を及ぼした。(ウィキペディアより)

六祖慧能法宝壇経

 

 


 

 

慧能大師が宝林寺に入山すると、韶州の刺史韋拠と官僚が寺を訪れ、街にある大梵寺の本堂で一般庶民に法を説いてくれるよう、大師にお願いした。

 大梵寺の講堂には、韶州の刺史韋拠と官僚、儒教の学士、それぞれ三十人ずつと、比丘,比丘尼、道教の修行者と一般の在家、合わせて千人ほど集まっていた。大師が法座に座ると、集まった人たちは拝礼し、仏教の重要な教えについて話してくれるようお願いしたので、大師は話し始めた。

 「みなの衆(善知識)、菩提自性は、本来清浄で、そしてこの心を使うだけで、すぐに仏性に到達する。わしがどのように法に到達したかについて話そう。まあ聞いてくれ。

 わしの父は范陽の出身で、官吏の職を剥奪されて嶺南へ流され、新州で百姓をしていた。不運なことに、わしがまだ幼い時に、貧苦の中に母を残して父は亡くなり、母とわしは南海へ移転し薪を売っていましたが、常に困窮した生活だった。

 ある日、わしが薪を背負って市場へ売りに行くと、客が店まで届けるように言うので、薪を届けて代金を受け取って門を出ると、店の近くで経を誦えている男と出会った。わしは、その経文を聞いただけで、たちまち心が明るくなり、男が誦えている経の名前を尋ねると、その経は「金剛経」だと分かった。

わしは続けてその男に、どこから来たのか、なぜ一人でこの経を誦えているのか訊くと、男は、「嶄州黄梅の東禅寺から来た。現在の住職は五祖弘忍で、教えを受ける弟子はおよそ千人いる。わしが大師に会った時、この経に関する説教を何度も聞いた」と答えた。

男は続けて、「大師は、みんなで誦えていれば、自分の自性を見ることができるかもしれないし、それによって仏性に到達すると、出家にも在家にもこの経を誦えるよう、いつも繰り返し言っておられる」と言った。

 多分前世で積んだ善のお陰で、わしはこれらの話を知ることができ、その上この慈悲深い男は、わしが家にいない間、母が使う金として十両を渡し、大師に会うために黄梅に行くよう勧めた。わしは母の面倒を見てくれる人を探してから、黄梅に向かって旅立ち、三十日足らずで到着した。

 黄梅に着くと、すぐに弘忍大師に挨拶に行った。大師はわしに、どこから来たのか、何を望んでいるのだとお尋ねになった。わしは、「私は嶺南新州の百姓で、和尚様にお目に掛かるために非常に長い旅をしてきました。仏陀になること以外に何も望みはありません」と答えると、大師はわしに、「嶺南の人か。山出しの田舎者のお前に、どうして成仏が望めるのだ」と言われた。

わしが「人は北の人と南の人がいますが、仏性に北南の差がある訳ではありません。山出しの田舎者も和尚様も、すべての人の仏性は同じです」と申し上げると、大師はまだ何か言われそうな様子だったが、弟子たちが何人も来たので止め、わしに、寺男と一緒に働くようお命じになった。

わしは、「私の心にはいつでも観と智慧が生じていて、自性から離れていなければ、福田と呼ぶべきですと言わせていただきます。和尚様はわしに、どんな仕事をおさせになるのでしょうか」と申し上げた。

大師はわしに、「この山出しの田舎者は非常に賢い。穀物小屋へ行きなさい。それ以上何も言ってはいけない」と言われた。裏の建物へ行くと、そこにいた寺男が、薪を運び、米を搗くように言った。

それから八か月以上過ぎたある時、大師がわしを見ると、「お前の仏法の知識は確かで、非常に多いことは良く知っている。しかし悪人らがお前に危害を加えるのを心配して、お前と話すのを避けている。分かっているな?」と言われた。わしは「はい、和尚様。分かっております。このことを誰にも気づかれないために、和尚様のお部屋には敢えて近づきません」と申し上げた。 

 

 ある日大師が全部の弟子を集めて、「世間の人にとって輪廻は火急の問題なのに、来る日も来る日も善や徳に夢中になって、苦海から抜け出す努力をしていない。本性が迷っていれば、善や徳は何も救うことはできない。一生懸命自心の智慧を見て本性の般若を探し、頌(詩の形式の一つ)を一つ書いて提出しなさい。

 自性とはどのようかを正しく悟っていると見れば、その人に奥儀である教えと衣(宗祖であることの象徴)を伝授し、六祖にする。急いで行きなさい。頌を書く時、いろいろ考える必要はない。自性が見える人はすぐに見えなければならん。そういう人は今戦場で乱戦していても、見える」と言われた。

 これを聞くと弟子たちはみな退席し、「心を集中させて頌を書いて提出しても、わしたちには何の利益もない。宗祖になるのは、筆頭弟子の神秀以外にいないと、誰もが見ているから、わしたちは作っても徒労だ。これからは神秀一人について行けば良い」と言った。

 その時神秀は、「わしは、頌を提出しない人たちを教える師になるために、頌を作って大師に提出しなければならない。提出しなければ大師は、わしの理解がどれくらい深いか浅いか、知ることができない。頌を提出する目的が、大師から法を授かるためならわしの意図は善だが、宗祖の地位が欲しくて提出するなら、意図は悪だ。そして大師から宗祖の地位を奪い取る行為と同じだ。提出しなければ、その法を知る機会はない。困った、困った」と一人言を言った。

 大師の居宅の前に、三間の廊があり、廊の壁に「稜伽経」の絵図と、五祖までの宗祖系統図を描くために盧珍が招かれていた。

 神秀は頌を作り終わると、何度も大師に提出する努力をしたが、何度大師の住まいに近づいても、全身に冷や汗が出て、提出することができなかった。彼は四日間に十三回も努力し、最後に、「廊の塀に頌を書いて、大師がご覧になるようにする方が良い。大師の心に適えば、それから挨拶に行って、わしが作者だと名乗り、大師が、これは使い物にならないと見れば、この山で暮した何年もの時間が無駄だったということだ。そして庶民を迷わせ、長い間ふさわしくない尊敬をさせた。もしそうなら、仏法の勉強は少しも上達しなかったということではないだろうか」と納得した。

 その日の深夜、神秀は灯を持って行き、小径の南側の壁に頌を書いて、所見を表明した。その頌は、

身体は菩提樹

心は澄んだ鏡台

折に触れて勤めて拭い

埃の止まるを許さず

書き終わると、誰にも知られずに、急いで自分の部屋に戻った。部屋に戻ると、「明日大師がわしの頌をご覧になって満足すれば、大師の法を授かる準備が整ったということだ。しかし大師が、これは駄目だと言われれば、わしはまだその法を授かるにふさわしくないということだ。わしは前世から積んできた悪に心を厚く包まれているので、大師がわしの頌をどうお感じになるか、推測できない」と心配した。彼は朝までこのように考え、寝ても座ってもあんしんてせきなかった。

 しかし大師は前から、神秀はまだ悟りの門をくぐっていない、まだ本当の心が見えていない、と知っていた。

 大師が盧珍に、「遠くからお出でいただいて残念だが、あなたは描く必要がないようです。経に、『形のあるすべての物、あるいは現象・行動のあるすべての物は、無常であり幻である』とあるので、この頌はこのままにし、人に暗唱して勉強させれば苦を脱し、悪道に落ちないで済むので、この頌で修行する人が受け取る功徳は非常に大きい」と言われた。

 そう言うと大師は、ロウソクと線香を持って来て火を点けさせ、弟子たちに、それを拝んで暗唱すれば、すぐに自性が見えると言った。弟子たちは暗唱し終わると、全員が「素晴らしい」と感嘆した。

 真夜中になると、大師は遣いをやって神秀を呼び、その頌を書いたのはあなたかと聞いた。神秀は「はい、そうです。私は宗祖の地位を望んでいる訳ではなく、その頌に、多少でも智慧の片鱗があるかどうかを、大師に教えていただきたいだけです」と答えた。

 大師は、「あなたの頌は、まだ自性が明白に見えていないことを表している。あなたは門の外まで来て久しいが、まだ門をくぐっていない。」と言われた。

「このような見解で、無上菩提を探すのは難しい。無上菩提に到達するには、すべての自性は不生不滅だと、自分の本心を知らなければならん。いつでも、すべてが滞ることなく、一つの真はすべての真、すべてはあるがままと自分の心を見れば、すなわちこれが真実である。このように見ることができれば、それが無上菩提の自性である。戻って一両日考え、新しい頌を持って来て見せなさい。もしあなたの頌が、門をくぐっていれば、袈裟と法をあなたに伝授する」。

 神秀は大師に拝礼をして戻り、それから何日経っても、新しい頌を作る智慧がなくて困っていました。心は呆けたようになり、不安で、夢の中にいるようで、何をしても落ち着かなかった。

 


二日後、わしが米を搗いている小屋の前を、たまたま一人の少年が通りかかり、壁に書いてある神秀の頌を、大声で暗唱しながら歩いていた。それを聞くと、わしは、その頌の内容に関した説明を何も聞いていなくても、その頌全体の意味が理解でき、その頌の作者は、まだ自性が明らかに見えていないと、すぐに分かった。 


少年に「何の頌だ」と聞くと、少年は、「山出しの田舎者の旦那、あなたはこの頌をご存じないのですか。大師様がお弟子たち全員に、『輪廻は世の人にとって火急の問題である。そして法と衣を伝授されたいと望む者は、頌を一つ作って提出しなさい』とおっしゃいました。

 そして『自性が見える者に法と衣を渡し、六代目の宗祖にする』とおっしゃったので、高弟の神秀さんが『無相』という頌を、南側の通路の塀にお書きになり、大師様は、「その頌を唱えなさい。この頌を勉強する人は、悪趣に生まれことから免れられるので、大きな利益がある』とおっしゃいました。

 わしは少年に、「わしも将来そのような教えに出会えるように、その頌を憶えて唱えたい。わしは八カ月も米搗きをしているが、その廊の方へ足を踏み入れたことは一度もない。その頌を拝めるように、頌の書いてある所まで案内してくれ」と言った。

 少年はわしをそこへ連れて行き、わしは文字が読めないので、読んで聞かせてくれるように頼むと、たまたまそこにいた張日用という名の江州の役人が、読んで聞かせてくれた。わしは聞き終わると、「わしも一編頌を作ったので、書いてもらえまいか」と彼に言うと、彼は、「これは珍しい。あなたも頌を作れるのですか」と、驚いた。

 わしは、「無上菩提を学びたいなら、初心者を見くびってはいけません。身分が低くても高い智慧がある人もいるし、身分が高くても智慧の無い人もいます」と言った。

 彼は、「どれ、あなたの頌を言ってみなさい。 わしが書いてあげます。あなたが悟ったら、まずわしを救うのを忘れないでください」と言った。

 惠能の頌は

   菩提樹はない 

   澄み切った鏡もない

   すべてのものは無である時

   埃は何に止まるのか

 彼がこの頌を書き終わると、そこにいた人はみな驚き、非常に奇妙な気持ちになり、「何て不思議なことだ。人を見掛けで判断すべきでない。こんなことがあり得ようか。菩薩の化身にこれほど長い間、重労働をさせていたなんて」と、口々に言った。

 人々が不思議な気持ちで感動しているのを見た大師は、嫉妬深い人たちがわしを攻撃するのを恐れて、靴でわしの頌を掻き消し、『まだ自性が見えていない』とおっしゃった。

 翌日、大師がこっそりと米搗き小屋を訪れ、わしが石杵で米を搗いているのを見て、「求道の人は、法のためなら体の苦労など気にしないのではないか」と言われた。そして続けて、「米はできているか」とお尋ねになりました。わしが「とうにできています。待っているのは篩です」と答えると、大師は杖で臼を三回叩いて、出て行かれた。

 わしは、その意味が理解できたので、その夜の三更(二十三時から二時の間)に、大師の部屋へ行った。大師は衣を張り巡らして、二人の姿が誰にも見えないようにし、それから金剛経の内容をわしに説明し「心が生じて住む所はない」という所まで来たとき、その瞬間、わしは、「世界のすべてのものは、他でもない自性である」と見え、完全に法を悟った。

 


 わしは大師に、「自性が清浄なものと、誰が考えるでしょう。自性は生滅しないと、誰が考えるでしょう。自性は具わっていると、誰が考えるでしょう。自性は動揺しないと、誰が考えるでしょう。自性はすべてのものを作り出すと、誰が考えるでしょう!」と言った。

 わしが自性を悟ったと知った大師は、「自分の心が何かを知らない人が仏教を勉強しても利益はない。反対に自分の心を知れば、自然に自性が見え、『丈夫』とか、『天人と人間の師』、すなわち『仏陀』と呼ばれる」とおっしゃった。

 その晩わしは誰にも知られることなく、頓悟の教えと衣と鉢を授かった。

 大師は続けて、「今あなたは六祖である。自分を善く管理して、人間を救えるだけ救い、教えを広めなさい。教えを絶やしてはいけない。わしのこの頌を憶えておきなさい。」と言われた。

  有情は因果の田に種を蒔き、

「仏性」の実を刈り取り

  無情に仏性は無いので

種を蒔くことも、生まれることもない

 大師は続けて、「達磨大師がこの国に来られた時、当時の人のほとんどが信じなかったので、大師から大師へ、代々伝授しなければならない伝統が生まれた。法は人から人へ心で伝え、自分で理解し、自分で悟った。いつからと数えられない昔から伝統としてそう行動してきた。一人の仏陀も、教えの要点を受け継ぐ人に伝授した。宗祖もおなじで、大師から大師へ譲渡してきた。

 しかし衣と鉢は闘争の原因になるので、あなたはこれを伝授してはならない。この衣を伝授すれば、命は綱渡りのようになる。危害を加える者がいるといけないから、一時も早くここを離れなさい」と言われた。

 わしがどこへ行くべきかと訊くと、大師は「考えがあったら止まり、理解したら隠れなさい」と言われた。真夜中に衣と鉢を譲り受け、「わしは南の人間なので山を旅する仕方は知っていますが、舟で河口まで行けません」と言うと、大師は、「心配しなさるな。わしも一緒に行く」とおっしゃって、九江まで送ってくださった。

 駅の辺りに舟があり、大師がわしに舟に乗るように言われ、大師が櫂を握って漕がれたので、わしが師に坐ってくださるようお願いすると、大師は、「これはあなたを送るわしだけの権利だ」とおっしゃった。

 わしは「私がまだ迷っている時は師が渡しますが、悟った後は自分で渡るべきです。同じ言葉でも、使うところが違います。私は田舎の生まれなので訛りがあり、正しく発音できませんが、大師から法を授かったので、私は悟ったのです。自生を明らかに見ることで生死の海を渡るのは、私の権利であるべきです」と申し上げた。

大師は、「そのとおり、そのとおりだ。これからはあなたによって、仏法が広まる。わしは今から三年後にこの世を去る。あなたはこれから南へ下りなさい。布教を急ぐべきではない。仏法に難が起こるから」とおっしゃった。

 


 大師が寺へ戻ると、数日、本堂に姿を見せなかったので、弟子たちが「和尚様。お体の調子でも悪かったのですか」と質問しました。大師が、「病気ではない。法と衣は既に南に向かった」と言われると、「誰に渡したのですか」と訊かれ、「惠能に渡した」と答えたので、弟子たちはそれを知った。

 


 大師と別れ、南へ向かって二カ月ほど旅をして、大庾嶺(だいゆれい)に着いた時、観察すると、何百人もの人が衣と鉢を奪おうと追って来ているのが見えた。追っ手の中に、惠明という僧がいました。俗姓は陳と言い、軍の准将の地位があり、振る舞いが粗暴で癇癪持ちで、追っ手の中で最も尾行に長けていた。もう少しでわしに追い付きそうになった時、わしは衣と鉢を岩の上に置き、「この衣はただの象徴にすぎない。力で奪い取っても何の利益もない」と分かるようにして、茂みに隠れた。

  惠明は石の所まで来て、それを掴もうとしましたが、どうしても掴むことができず、それで彼は「行者(寺で働く人)、行者。わしは法を求めて来たのだ。衣のためではない」と叫んだ。(惠能はまだ具足戒を授かっていないので、在家の人たちが修行僧を呼ぶように「行者」と呼ばれた)。

 わしが隠れていた場所から出て石の上に座ると、惠明は拝礼して、「行者、わしに法を説いてください」と言った。

「法を聞きたくて来たのなら、何も考えないように心を鎮めて、心の中を空にしなさい。そうしたら教えよえ」と、惠明に言うと、彼がそれなりの時間そうしていたので、わしは、「あなたが悪いことも善いことも考えない時、あなたは何者ですか。それがあなたの本来の姿ではないですか」と言った。

 惠明はそう聞いた途端に理解した。しかし続けて、「宗祖が何代も次々と伝承してきた秘密の教えは、他にもまだあるのですか」と質問した。わしは、「あなたに教えたのは、秘された教えではない。自分自身の内面を見れば、自分の中にそれが見える」と答えた。

 惠明は、「ああ私は、黄梅で長いこと暮らしていたが、自分の心の自然が明らかに見えなかった。今教えてもらって、水を飲めば、水が熱いか冷たいか分かるように、私はそれを明らかに知った。感謝します。行者。あなたは今や、私の師です」と言った。              

 わしは「それが本当ならば、わしとあなたは同じ五祖の弟子です。自分自身を善く護りなさい」と言った。彼が「私はこれからどこへ行くべきでしょうか」と訊いたので、「衣に逢ったら止まり、教えに会ったら住みなさい」と言うと、彼は拝礼して去って行った。

 


 その後間もなく、わしが曹渓へ到着すると、また悪人が追ってきたので、難を避けて、四会の猟師の群れに隠れなければならず、わしはそこに、約十五年間住んでいた。時には、彼らが何とか理解できるように、教える術を探しました。彼らはわしに、生け捕りにしてきた動物の網の見張りをさせ、わしは網に入れられた動物を見る度に逃がし、肉を煮ている鍋に野菜を入れると、不思議がって尋ねる人がいました。わしは「肉と一緒に煮たスープでも、わしは野菜だけを選んで食べる」と、答えました。

 ある日わしは、「いつまでもこのように隠れているべきではない。法を説く時が来た」と考え、そこを出て、広州の法性寺へ行った。

 その時有名な印宗法師という方が、涅槃経について説法をしていた。吹いてきた風に旗がひらひらとはためくと、二人の僧が、「いま揺れて動いているのは、風か旗か」と論争を始め、決着が着かないので、わしが「それは風でも旗でもない。本当に動いているのは、二人の心だ」と言うと、二人の僧は、わしの言葉にハッとした。そして印宗法師が、わしを高い台に招くと、奥儀を細かく質問した。

 わしの答が簡潔で明瞭で、そして書物から得られる知識より高いものがあると見て、印宗法師はわしに、「行者よ、あなたは非凡で特別な人物に違いない。わしは、五祖から法と衣を授かった人が南方へ旅をしているという話を、ずっと前に聞いたことがあります。あなたはその方に違いない」と言った。

 わしが、控え目に認める態度を示した途端に、印宗法師は拝礼し、そして、授かった衣と鉢を見せてくださいと言った。そして、「五祖からどんな秘法を教わったのですか」と聞いた。

 わしは「自性を明らかに見る話で引っ掻いただけで、それ以外には、大師は何も教えられず、禅定と解脱にも言及されませんでした」と答えた。印宗法師は、「なぜ禅定と解脱につて話さなかったのでしょうか」と質問した。わしは、「つまり、仏法に二つの道があるという意味になるからです。仏法には二つの法道はあり得ず、道は一つだけです」と答えました。

 印宗法師は続けて「不二の道とはどういうことですか」と質問しました。わしは「あなたが説法をしていた涅槃経で説いている、(誰にでもある)仏性、それが不二の法です。例えばその経のある部分で、高貴徳王菩薩が仏陀に、「四重禁を犯した人、あるいは五逆罪を犯した人、異教の邪見のある人たちは、自分自身の善根や仏性を滅亡させたことになるのでしょうか」と質問した時、仏陀は「善根は二種類ある。一つは永遠で、もう一つは永遠でない。仏性は永遠のものではなく、永遠でないと言っても違う。だからその人の善根は断たれていない。これを不二と言う」と答えた。

今仏法は二つの道ではないと現われている。善というものもあり、悪というものもあるのは本当ですが、仏性の自然は、善でも悪でもないので、仏法は不二であると現れている。一般の普通の人の考えでは、蘊の細部とすべてのダートゥは、二つに分けられると理解していますが、法に達した人は、これらのものの自然、仏性、あるいは仏性の自然は、対ではないと理解します」と答えた。

 印宗法師は、わしの答に非常に満足して合掌し、わしに「この経の私の解説は瓦礫のようで、あなたの説明は、純金のようです」と言いました。それから印宗法師はわしの剃髪をし、具足戒を授け、そしてわしの弟子にしてほしいと言った。

 その時からわしは、ずっと菩提樹の下で頓悟の教え、つまり東山寺の四祖と五祖の教えを広めました。東山の法を伝授されて以来、わしは何度も何度も辛苦に遭い、命は糸の上に乗っているようだった。今日ここでみなの衆に会えたのは、何刧もの間積み重ねた善い縁で結ばれていたこと、そして過去世で何人もの仏陀を供養した同種の善根によるもの。そうでなければ、迷いから覚め、仏法を理解させる基盤である頓悟の教えを聞く機会が、どうしてあるだろうか。

 この教えは、宗祖から代々の受け継いできた教えで、わしが考え出したものではない。この教えを聞きたい人は、初めに自分の心を清浄にしなければならない。そして聞いたら、過去の修行者と同じように、自分で疑念を、除かなければならない」。

 説法を聞き終わると、聴衆は歓喜して拝礼し、帰って行った。


 神秀偈

   「身は是れ菩提樹、心は明鏡の台の如し。

    時時に勤めて払拭して、塵埃を有らしむること莫れ。」
身は是れ菩提樹にして
心は明鏡臺の如し
時時勤めて拂拭し
塵埃を惹かしむること勿れ

身体は悟りの樹であり
心は澄んだ鏡のようである
 いつも綺麗に掃除を怠らず
 けして(身体や心を)塵や埃で汚してはならない


 慧能偈

   「菩提、本より樹無し、明鏡も亦た台無し。

  仏性は常に清浄なり、何処にか塵埃有らん。」

   又の偈に曰く、

 「心は是れ菩提樹、身は明鏡の台為り。

  明鏡は本より清浄なり、何処にか塵埃に染まん。」

後に六祖となる慧能は、幼くして父を亡くした為、嶺南で薪を売って暮らしていたが、ある時一人の人が『金剛経』を読誦しているのを聞き心が晴れた、そこでそのお経をどこで手に入れたかを尋ねると、黄梅山の五祖弘忍禅師に頂いたと聞き、五祖のもとを尋ねます。
 初めて五祖と正見した時、「お前は何を求めてどこから来たか?」と尋ねられ、「嶺南から来た平民だが仏になりたくてやって来た」と答えると、(当時の中国では南の人間は劣ると考えられていた為)「どうして嶺南の山猿が仏になれようか」と五祖がいうので、「仏性に北も南もありますまい」と答えたところ、見所があると見込まれたが、正式の出家もしていなかった為、寺男として働いていた人物です。

実は私も約25年前の雲水時代、師家であった香南軒老大師の計らいで他の雲納とともに制間中、黄梅の五祖寺に参拝したことがあります。
 六祖は身体が小さかった為、米を搗くのに腰に石を結わえ付けて搗いていたという伝説がありますが、その時「これが六祖が腰にぶら下げていた」という石を見せて貰ったことがあります。当時はそれほど感慨はありませんでしたが、今思い出すと本当に希有なご縁に恵まれたと感謝するばかりです。

さてある日、五祖は自分の後継者を決めようと一山の弟子全員を集めて言いました。「お前達は自己の境地を託した一編の詩偈をそれぞれ作って持ってきなさい。優れた者を六祖にしよう」と。
しかし殆どの修行者は、どうせ我々が作っても無駄だ、恐らくは秀才で優等生でもある神秀上座が後を嗣がれるに違いないと噂しました。
そこで神秀はみんなの期待に応えるべく偈を作ったのですが、五祖の部屋に持って行こうとすると緊張で部屋に入ることが出来ません。
13回も提出を試みたのですが、とうとう渡すことが出来なかったので、五祖の目に付くように壁に書き付けた偈が次のようなものでした。

身は是れ菩提樹にして
心は明鏡臺の如し
時時勤めて拂拭し
塵埃を惹かしむること勿れ

身体は悟りの樹であり
心は澄んだ鏡のようである
 いつも綺麗に掃除を怠らず
 けして(身体や心を)塵や埃で汚してはならない

大衆は皆、素晴らしい偈だと讃えますが、しかし五祖はこの神秀の偈を見て、まだ本当の悟りを得ていないとしてもう一度作ってくるように言います。

ところが数日後、寺の者が口々に神秀の偈を口ずさんでいるのを聞いた六祖は、字も読めない身でありながら神秀の偈を聞いて即座に思うところがあって、自分の心境を託した偈を先輩の張日用という人に壁に書いて貰った。
それが有名な次の偈です。

菩提に本と樹無し
明鏡も亦た臺に非ず
本來無一物
 何の處にか塵埃を惹かん

悟りには樹などという姿形は無い
澄んだ心にもまた台など無い
本来は無一物
どこに塵や埃がつこうか

この偈によって慧能が六祖として認められ、五祖の衣鉢を嗣いで南宗禅の開祖となり、後に所謂五家七宗として発展していく訳です。
 南宗禅は別名、頓悟(とんご)禅とも言われ、悟りの機微を重んじるのが特徴です。

一方の神秀ですが、こちらは北宗禅として法系が嗣がれ我が国にも伝教大師最澄などによって奈良時代平安初期もたらされています。
 慧能の流れを汲む荷沢神会などは、北宗禅を漸悟(ぜんご)禅(段階的に悟る禅)と批判しましたが、けしてそのような階梯的では無かったことが後年明らかとなっているようです。
ただ北宗禅の法系は、845年(会昌5年)の会昌の廃仏によって絶えたようですが、やはり頓悟を旨とする現在の禅に於いても、「時時勤めて払拭すべし」という教えが大切である事は間違いないでしょう。
 本来は無一物だとしても、無一物だから何もしなくても良いということではないのです。
それは無事禅とまた批判されるべき対象でありましょう。

洞山録

洞山良价(とうざん・りょうかい、807年 - 869年)は、中国の唐代の禅僧。俗姓は兪氏。五家七宗の一つ、曹洞宗の開祖。

高弟に曹山本寂(840~901年)がおり、宗派の名は洞山とこの曹山から一字ずつとって当初は「洞曹宗」を名乗ったというのが通説の一つだが、諸説異論ある。

会稽(現今の浙江省紹興市あたり)の出身。幼少のころより仏門に入る。村院の師について学んだが、『般若心経』を唱えたとき、六根の釈義について問いつめるなど頭角を現したので、五台山の高僧である霊黙のもとへ遣わされ[1]、21歳のとき受戒した。 のち南泉普願にも薫陶を受け、潙山霊祐にも師事。最後に雲巌曇晟(うんがんどんじょう 782-841)を師と仰いだが、『人天眼目』によればこのとき「三種滲漏」などの真髄を相伝した。

武宗による会昌の廃仏(843-845)が起きたが、大過なくやりすごした。晩年に洞山(現今の江西省高安市にある)を開いて禅門の一院を創設。(当初は、広福寺、 功德寺、崇先隆報寺などの名だったが、宋代初頭以降、普利院と称した。)ここで『宝鏡三昧(宝鏡三昧歌)』を作した。門徒は500~1000人に達したという。

洞山が提唱したかたちの五位は、「正偏(しょうへん)五位」と称される。

その思考を知る資料『洞山語録』がある。(ウィキペディアより)

祖堂集

祖堂集(そどうしゅう)は、五代十国の南唐の静・均の二人の禅僧によって952年(広順2年)に編集された中国禅宗の燈史である。唐代の801年(貞元17年)に成立した洪州宗系統の智矩が編纂した燈史、『宝林伝』の後を受けて編纂されている。編者たちの立場は、青原行思系の一派を、南嶽懐譲系よりも前に置いていることによって、窺い知ることができる。


祖堂集は中国国内で編集されたものの、入蔵されず、高麗に持ち込まれて、1245年(淳祐5年)に高麗大蔵経の附録として刊行されたため、20世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかった。


内容の特徴として、朝鮮半島出身の禅僧の伝記を数多く含むほか、1004年(景徳元年)に編集された『景徳傳燈録』には含まれない独自の問答を収録するなど、未入蔵で伝世したものではあるが、その内容に関しては非常に貴重な禅宗史書である。(ウィキペディアより)