帰命無量寿如来 南無不可思議光
計り知れないいのちの如来(阿弥陀如来)に帰命し(心から信じすべてをゆだねる)、考えの及ぶところではない不思議な光(阿弥陀の光)に南無し(心から信じすべてをゆだねる)たてまつる。
阿弥陀如来
阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。梵名は「アミターバ」(अमिताभ Amitābha[amitaabha])、あるいは「アミターユス」 (अमितायुस् [amitaayus])といい、それを「阿弥陀」と音写する。「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。
如来如去
如来 (にょらい)とは、仏教で釈迦を指す名称(十号)のひとつ。あるいは、大乗仏教における諸仏の尊称。如去とも。
元になったサンスクリット語はतथागत(tathāgata タターガタ)であり、ひとまず「如 (tathā タター) 」の後に来る語を「去れる (gata ガタ) 」とするか「来れる (āgata アーガタ) 」とするかで如去、如来と漢訳し分けられる。音写として多陀阿伽陀(ただあがだ)がある。 しかしながら実際の意味は、そのパーリ・サンスクリットなどの原語から解釈したものや、「如来」「如去」という漢訳語から再解釈したものなど多岐に渡るため、一概に決定説を挙げることはできない。
tathā āgata(如く到れる) - 「(古仏と)同じく一切を知る智慧に到達した者」。
tathā gata(如く去れる) - 「(古仏と)同じくすべての煩悩を滅して去る者」。
tatha-lakkhaṇaṃ āgata(真如相に通じる) - 「真如 (tatha タタ) の特徴を悟った者」。
アミター
梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。
三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種字)はキリーク(hriiH)。
ナム
南無(ナム)とは、サンスクリット語のナマス(namas)およびナモー(namo)の音写。敬意、尊敬、崇敬をあらわす感嘆詞。意訳すると、敬意を示します、敬礼します、礼拝します。一般に帰依の同義語として使われる。
また漢訳語として帰命も用いられる。
ナムは他に次の言葉にも使われる。
南無三
南無三(なむさん)とは、南無三宝(なむさんぽう)の略。三宝とは仏、法、僧のこと。咄嗟の危難に対して助けを乞うおまじないの意味で使用されることもある。
ナマステ
インドにおける日常の挨拶言葉であり、貴方に感謝あるいは貴方を尊敬しますという意味である。ナマスは「感謝」および「尊敬」で帰命というほど宗教的な意味で使用しているわけではない。テは貴方という意味。ありがとう。
ナマスカール
感謝しますという意味。ナマスは「感謝」、カールは「~します」。ありがとう。
四十八願
四十八願 (しじゅうはちがん)とは、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩 が阿弥陀如来に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。
浄土宗、浄土真宗などの浄土教系仏教諸宗では、特に「第十八願」を重要視する。
第一願願名 - 無三悪趣の願原文 - 設我得佛 國有地獄餓鬼畜生者 不取正覺
第二願願名 - 不更悪趣の願原文 - 設我得佛 國中人天 壽終之後 復更三惡道者 不取正覺
第三願願名 - 悉皆金色の願原文 - 設我得佛 國中人天 不悉眞金色者 不取正覺
第四願願名 - 無有好醜の願原文 - 設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺
第五願願名 - 宿命智通の願・令識宿命の願原文 - 設我得佛 國中人天 不識宿命 下至不知百千億那由他 諸劫事者 不取正覺
第六願願名 - 令得天眼の願・天眼智通の願原文 - 設我得佛 國中人天 不得天眼 下至不見百千億那由他 諸佛國者 不取正覺
第七願願名 - 天耳遥聞の願・天耳智通の願原文 - 設我得佛 國中人天 不得天耳 下至聞百千億那由他 諸佛所説 不悉受持者 不取正覺
第八願願名 - 他心悉知の願・他心智通の願原文 - 設我得佛 國中人天 不得見他心智 下至不知百千億那由他 諸佛國中 聚生心念者 不取正覺
第九願願名 - 神足如意の願・神足智通の願原文 - 設我得佛 國中人天 不得神足 於一念頃 下至不能超過百千億那由他 諸佛國者 不取正覺
第十願願名 - 不貪計心の願・漏尽智通の願原文 - 設我得佛 國中人天 若起想念 貪計身者 不取正覺
第十一願願名 - 必至滅度の願原文 - 設我得佛 國中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覺
第十二願願名 - 光明無量の願[文 - 設我得佛 光明有能限量 下至不照百千億那由他 諸佛國者 不取正覺
第十三願願名 - 寿命無量の願原文 - 設我得佛 壽命有能限量 下至百千億那由他劫者 不取正覺
第十一願の往生浄土する者を必ず成仏せしめるという誓いの後の第十二・十三願であるから、往生浄土したものに具わるべき徳。この第十二・十三願によって真仏土巻が説かれる。
第十四願願名 - 声聞無量の願原文 - 設我得佛 國中聲聞 有能計量 下至三千大千世界 聲聞縁覺 於百千劫 悉共計挍 知其數者 不取正覺
第十五願願名 - 眷属長寿の願原文 - 設我得佛 國中人天 壽命無能限量 除其本願 脩短自在 若不爾者 不取正覺
第十六願願名 - 離諸不善の願原文 - 設我得佛 國中人天 乃至聞有 不善名者 不取正覺
第十七願願名 - 諸仏称名の願・諸仏称揚の願・諸仏称讃の願・諸仏咨嗟の願・往相廻向の願・選択称名願・往相正業(略文類)原文 - 設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者 不取正覺
称讃・称名・咨嗟はともに讃歎の意味であり、名前を称える称名ではない。
第十八願願名 - 念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法訓読 -
設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。(第十八念仏往生の願)わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
法然はこの願を最も重要な願ととらえ、『選択本願念仏集』において、「故知 四十八願之中 既以念仏往生之願而為本願中之王也」と解釈したことから、「王本願」とも呼ばれる。
親鸞は『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」の真意を、「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。としている。
派生…歌舞伎などで「得意とする部分」の意味で用いられる「十八番」(おはこ)は、十八願から出来た言葉との説がある。
唯除の文親鸞は『教行信証』「信巻」や『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」についての了解を述べている。第十八願の願文のうち、「唯除五逆誹謗正法」の文言を「唯除の文」と呼ぶ。「信巻」では「唯除の文」について、曇鸞の『浄土論註』と善導の『観無量寿経疏』から引用している。 『教行信証』「信巻」
それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。今『大経』には「唯除五逆誹謗正法」と言い、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人」と言えり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には、難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。
報えて道わく、『論の註』に曰わく、問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。 (中略)
問うて曰わく、かくのごときらの計は、ただこれ己が事なり、衆生において何の苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんや。答えて曰わく、もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と。
(中略)
光明寺の和尚云わく、問うて曰わく、四十八願の中のごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて往生を得しめず。今この『観経』の下品下生の中には、誹謗を簡いて五逆を摂するは、何の意かあるや。答えて曰わく、この義仰いで抑止門の中について解す。四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。
—『教行信証』「信巻」『尊号真像銘文』
「大無量寿経言」というは、如来の四十八願をときたまえる経なり。「設我得仏」というは、もしわれ仏をえたらんときという御ことばなり。「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえとなり。「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。この本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。唯信ともうすは、すなわちこの真実信楽をひとすじにとるこころをもうすなり。「唯除五逆 誹謗正法」というは、唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。
—『尊号真像銘文』
第十九願願名 - 至心発願の願・修諸功徳の願・臨終現前の願・現前導生の願・来迎引接の願・至心発願の願原文 - 設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺
第二十願願名 - 至心廻向の願・植諸徳本の願・係念定生の願・不果遂者の願・欲生果遂の願原文 - 設我得佛 十方衆生 聞我名號 係念我國 殖諸德本 至心回向 欲生我國 不果遂者 不取正覺
果遂について、親鸞は一生果遂の義。この果遂の願のままに、第十九願の仮門から第二十願の真門に入り、第十八願の弘願に転入する三願転入を説く。
第二十一願願名 - 具足諸相の願原文 - 設我得佛 國中人天 不悉成滿 三十二大人相者 不取正覺
第二十二願願名 - 還相廻向の願・必至補処の願・一生補処の願原文 - 設我得佛 他方佛土 諸菩薩衆 來生我國 究竟必至 一生補處 除其本願 自在所化 爲衆生故 被弘誓鎧 積累德本 度脱一切 遊諸佛國 修菩薩行 供養十方 諸佛如來 開化恆沙 無量衆生 使立無上正眞之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之德 若不爾者 不取正覺
第二十三願願名 - 供養諸仏の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 承佛神力 供養諸佛 一食之頃 不能徧至 無數無量那由他 諸佛國者 不取正覺
第二十四願願名 - 供養如意の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 在諸佛前 現其德本 諸所欲求 供養之具 若不如意者 不取正覺
第二十五願願名 - 説一切智の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 不能演説 一切智者 不取正覺 一切智によって諸法を演説する。
第二十六願願名 - 得金剛身の願・那羅延身の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 不得金剛那羅延身者 不取正覺
第二十七願願名 - 万物厳浄の願・所須延身の願原文 - 設我得佛 國中人天 一切万物 嚴淨光麗 形色殊特 窮微極妙 無能稱量 其諸衆生 乃至逮得天眼 有能明了 辯其名數者 不取正覺
第二十八願願名 - 道場樹の願・見道場樹の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 乃至少功德者 不能知見 其道場樹 無量光色 高四百万里者 不取正覺
第二十九願願名 - 得弁才智の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 若受讀經法 諷誦持説 而不得辯才智慧者 不取正覺
第三十願願名 - 弁才無尽の願・智辯無窮の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 智慧辯才 若可限量者 不取正覺
第三十一願願名 - 国土清浄の願原文 - 設我得佛 國土清淨 皆悉照見 十方一切 無量無數 不可思議 諸佛世界 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺
第三十二願願名 - 妙香合成の願・宝香合成の願原文 - 設我得佛 自地已上 至于虚空 宮殿樓觀 池流華樹 國土所有 一切万物 皆以無量雜寶 百千種香 而共合成 嚴飾奇妙 超諸人天 其香普薫 十方世界 菩薩聞者 皆修佛行 若不如是者 不取正覺
第三十三願願名 - 触光柔軟の願原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 蒙我光明 觸其身者 身心柔輭 超過人天 若不爾者 不取正覺
第三十四願願名 - 聞名得忍の願原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 聞我名字 不得菩薩 無生法忍 諸深總持者 不取正覺
第三十五願願名 - 女人成仏の願・女人往生の願(法然・大経釈)・変成男子の願(親鸞『浄土和讃』)・転女成男の願、聞名転女の願(存覚『女人往生聞書』)原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 其有女人 聞我名字 歡喜信樂 發菩提心 厭惡女身 壽終之後
復爲女像者 不取正覺 第18願の別願。
第三十六願願名 - 聞名梵行の願・常修梵行の願原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 常修梵行 至成佛道 若不爾者 不取正覺
第三十七願願名 - 作礼致敬の願・人天致敬の願原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸天人民 聞我名字 五體投地 稽首作禮 歡喜信樂 修菩薩行 諸天世人 莫不致敬 若不爾者 不取正覺
第三十八願願名 - 衣服随念の願原文 - 設我得佛 國中人天 欲得衣服 隨念即至 如佛所讚 應法妙服 自然在身 若有裁縫 擣染浣濯者 不取正覺
第三十九願願名 - 常受快楽の願・受楽無染の願原文 - 設我得佛 國中人天 所受快樂 不如漏盡比丘者 不取正覺
第四十願願名 - 見諸仏土の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨意欲見 十方無量 嚴淨佛土 應時如願 於寶樹中 皆悉照見 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺
第四十一願願名 - 聞名具根の願・諸根具足の願原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 至于得佛 諸根闕陋 不具足者 不取正覺
第四十二願願名 - 聞名得定の願・住定供仏の願原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 清淨解脱三昧 住是三昧 一發意頃 供養無量 不可思議 諸佛世尊 而不失定意 若不爾者 不取正覺
第四十三願願名 - 聞名生貴の願・生尊貴家の願原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 生尊貴家 若不爾者 不取正覺
第四十四願願名 - 聞名具徳の願・具足徳本の願原文…設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 歡喜踊躍 修菩薩行 具足德本 若不爾者 不取正覺
第四十五願願名 - 聞名見仏の願・住定見仏の願原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 普等三昧 住是三昧 至于成佛 常見無量 不可思議 一切諸佛 若不爾者 不取正覺
第四十六願願名 - 随意聞法の願原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨其志願 所欲聞法 自然得聞 若不爾者 不取正覺
第四十七願願名 - 聞名不退の願・得不退転の願原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 不退轉者 不取正覺
第四十八願願名 - 得三法忍の願原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 第一第二第三法忍 於諸佛法 不能即得 不退轉者 不取正覺
真実━教=『大無量寿経』┳往相━┳行━━━━━━諸仏称名の願(第十七願) 浄土真実の行 選択本願の行
┃ ┃
┃ ┣信━━━━━━至心信楽の願(第十八願) 正定聚の機
┃ ┃
┃ ┣証━━━━━━必至減度の願(第十一願) 難思議往生
┃ ┃
┃ ┗真仏土┳━━━光明無量の願(第十二願)
┃ ┃
┃ ┗━━━寿命無量の願(第十三願)
┃
┗還相━(証)━━━━━━還相廻向の願(第二十二願)⇒『浄土論註』
方便(権仮)━━━━━━━━━━━化身土┳要門━『無量寿仏観経』 至心発願の願(第十九願) 邪定聚機 双樹林下往生
┃
┗真門━『阿弥陀経』 至心廻向の願(第二十願) 不定聚機 難思往生
法蔵菩薩因位時 (法蔵菩薩因位の時)
在世自在王仏所 (世自在王仏の所に在して)
覩見諸仏浄土因 (諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪 (国土・人天の善悪を覩見して)
建立無上殊勝願 (無上殊勝の願を建立し)
超発希有大弘誓 (希有の大弘誓を超発せり)
阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩という名で修行していたときに,すべての世界の中でも最高の極楽世界をつくって衆生を救済したいという誓願を起こしたという話。
法蔵菩薩=阿弥陀仏がまだ仏になられる以前に、菩薩として修行しておられたときの名。
因位=因位の反対は果位で、果位は仏のこと。因位は、まだ果位(仏)に至らない位で、
仏道を歩んでいる人(位)を指す。修行の結果に到達するまでの過程を原因とみなしていう。
結果としての悟りにいたる以前の修行の過程,また求道者である菩薩の段階のこと。
因地 (いんじ) ともいう。
世自在王仏=法蔵菩薩の師匠となられた仏。
諸仏の浄土の因=あらゆる仏は、ご自分の国(浄土)を建立されたが、その浄土の成り立ちと意義。
国土人天の善悪=諸仏の浄土と、そこに住んでいる人々や神々の良いところや悪いところ。
遠の昔、世自在王仏(せじざいおうぶつ=世間を自在に生きる王)と呼ばれる勝れた仏(悟りを開いた宗教家)がいた。ある時、この世自在王仏の話を聞いて、一人の国王が、無上の道心を起こして出家した。国を棄て、王位を棄て、法蔵(ほうぞう)と名乗ったという。才知にすぐれ、世の人々を、はるかに越えた人物だった。
ある時、法蔵は師の世自在王仏の許に行き、師の足下に跪(ひざまづ)いて合掌礼拝し、次のような詩句で、、自分はすべての衆生を救いたいのであるという心中を師に語った。この詩は、讃仏偈(さんぶつげ)、または、嘆仏偈(たんぶつげ)と呼ばれている。
光輝く師のお顔は、この上なく威力にあふれ、 その光明は他に比べようもない。
日も月も宝石も、いかなる光も、師の光明に遭えば、墨のように輝きを失う。
師のお顔やお姿は、世を越えて、比類無い。
師の悟りの評判の高さは、全世界に響きわたっている。
師の正しい行いの徳は、勝れて希(まれ)である。
深く正しく、諸々の仏の悟り(真理)を思念して、奥義を究めておられる。
師にはもはや、無知、貪(むさぼ)、怒りの心も無い。
人間界の勇者、獅子王のごとく、威光は量りしれない。
徳高く、智慧深く、その光明は、三千世界を震動させる。
願わくば、わたしもまた仏となって、師と同じように、聖なる世界の主(あるじ)になろう。
迷える人々を輪廻の世界から救って、解脱させよう。
私は誓う。私も仏の悟りを得て、あまねくこの願いを実現して、怯え、迷いながら生きる人々に、
大いなる安らぎを与える者になろう。
百千億万という、ガンジス河の砂の数ほどの仏を、供養するという途方もない決意。
そういう決意にも劣らぬ覚悟をもって、仏の道を求めて進もう。
また、たとえ仏の国が、ガンジス河の砂の数ほど有ったとしても、
数え切れぬほど多いとしても、私の光明で、全ての国を、隅々まで照らし出そう。
そうなるまで精進して、量りしれない威徳を身につけよう。
また、私が仏になったら、その仏国土を世界第一のものにしよう。
そこに住む人々は、こよなく勝れ、その国土もすぐれ、涅槃の悟りそのものとし、
他に比類なきものにしよう。
また、私は、大慈悲心をもって、一切の衆生を迷いや苦しみの世界から救い出そう。
そして、十方の他の世界から生まれ来る者に、喜びと清らかな心を与え、
我が国土に到れば、直ちに心安らかにしよう。
願わくば、師よ、見とどけ給え、これが私の真心の証(あかし)である。
このような願いを実現するために、私はつとめ励む決意である。
十方世界におわす智慧限りない仏達よ。 常に私の覚悟と修行を見守り給え。
たとえ、身は、諸々の苦難に出会おうとも、私はつとめ励んで、ついに悔いることはないだろう。
偈を説き終わると、法蔵は世自在王仏に言った。
「師よ、私は、このような大きな願いを起こしました。お願いです。私のために教法をお話下さい。私は、修行をして、仏になり、これまでの仏国土の勝れたところを選び取り、我が仏国土を建立して、苦しむ衆生を救いたいのです。どうか、私が悟りを開けるように、お話下さい。」
これを聞いた世自在王仏は、法蔵に答えた。
「お前自身で知る方が良いのだ。」
法蔵菩薩は、
「師よ、私の力では及びません。師でなければ、できないことです。どうか、諸仏の浄土の素晴らしさをお話下さい。師の話を聞いて、私は、修行を重ね、我が大願を成就したいのです。」
と言った。
世自在王仏は、法蔵の志高く、願いの深いことを知って、経を説いて、次のように言った。
「例えば、たった一人で、大海の水を升で量ろうとする。それは、無駄なことのように思えるが、それでも、気の遠くなるほどの時間をかければ、底を究めて、遂に海底の宝を得ることができるだろう。同様に、人が、心から道を求めて修行を続ければ、必ず良い結果を得ることができるだろう。いかなる願いもかなうものだ。」
そして、法蔵の求めに応じて、210億にのぼると言われる諸仏の浄土と、その国の人々の長所短所について語り、さらに、その様子を法蔵菩薩に見せたのである。
法蔵菩薩は世自在王仏の導きによって、その無数の浄土を訪ね、浄土のなりたちを教えられ、それらの浄土とそこに住む人びとの喜びや悲しみのありさまをつぶさにご覧になった。
そうして法蔵菩薩は、あらゆる人々を救い導きたいと、この上なくすばらしい願いをおこされ(いだかれて・もたれて)、今までにない大きな誓いをたてられた。
五劫思惟之摂受 (五劫に之を思惟して摂受したまう)
重誓名声聞十方 (重ねて誓うらくは「名声十方に聞こえん」と)
五劫という、たいへん長いあいだ思惟しつづけて、ご自身がほんとうに願うことは何であろうかと探求され、それが適う道として、ついに念仏の道を明らかにされた。そして、あらゆる国々に南無阿弥陀仏の声が響きわたるようにと誓いをたてられた。
五劫=劫は古代インドにおける最長の時間の単位。一劫は4億3200万年ともいう。芥子劫・盤石劫など、比喩的に表現される。
摂受(しょうじゅ)=折伏に対する反対語。衆生 (しゅじょう) の善を受け入れ、収めとって導くこと。正しくは摂引容受(しょういんようじゅ)といい、その略語である。心を寛大にして相手やその間違いを即座に否定せず反発せず受け入れ、穏やかに説得することをいう。
名声(みょうしょう)=阿弥陀仏を讃(たた)えて「南無阿弥陀仏」と称(とな)える声。
普放無量無辺光 (普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王 (無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智恵光 (清浄・歓喜・智恵光)
不断難思無称光 (不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹 (超日月光を放ちて塵刹を照らす)
一切群生蒙光照 (一切の群生、光照を蒙る)
十二光 じゅうにこう
阿弥陀仏の光明を12の功徳(くどく)に分けてたたえる呼び名。無量光・無辺光・無碍光(むげこう)・無対光・光炎王光(こうえんのうこう)・清浄光(しょうじょうこう)・歓喜光(かんぎこう)・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光(ちょうにちがっこう)。
塵刹=塵は無数の意。刹は梵語クシェートラ(kşetra)の音写。国土・世界の意。 無数の国土。
無量光 はかりしれない功徳の光
無辺光 かたよらず遍く照らす功徳の光
無碍光 何ものにも遮られることのない功徳の光
無対光 なにものも比べられない功徳の光
光炎王光 六道に迷う魂を人間界に生まれさせようという功徳の光
清浄光 衆生の貪欲を清らかに浄める功徳の光
歓喜光 衆生の瞋恚(怒りのこころ)を恐ろしい心として懺悔させ、喜びにかえる功徳の光
智慧光 衆生の愚痴(ねたみ・そねみ・うらみ)のこころを懺悔させ、因果の道理を知らしめる功徳
不断光 途切れることのない功徳の光
難思光 思いも及ばないほどの功徳の光
無称光 たたえる言葉が見つからないほどの功徳の光
超日月光 日光月光という世界最高の光を超えた功徳の光
本願名号正定業 (本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因 (至心信楽の願を因と為す)
阿弥陀仏の本願(約束)の名号、すなわち南無阿弥陀仏の六字は正定という悟りを開くためのものであり、阿弥陀仏の第十八願至心信楽の願に誓われている信を往生の正因とする。
成等覚証大涅槃 (等覚と成り大涅槃を証することは)
必至滅度願成就 (必至滅度の願、成就すればなり)
等覚と成るとは正定聚の位につくこと、そして浄土に往生してさとりを開くことができるのは
必至滅度の願[(第十一願)]が成就されたことによる
如来所以興出世 (如来世に興出したまう所以は)
唯説弥陀本願海 (唯弥陀の本願海を説かんとなり)
五濁悪時群生海 (五濁悪時の群生海)
応信如来如実言 (応に如来如実の言を信ずべし)
釈迦如来が世に出られた、生まれて悟り教えを広めた、所以(ゆえん)は、
ただ阿弥陀仏の本願海、海のように広くすべての流れがそそぎこむような誓願、の教えを説くためである
五濁の悪世、いろいろな汚れ穢れに満ちた今のこの世の人々は
釈尊のまことの教えをこころから信じるべきである
能発一念喜愛心 (能く一念喜愛の心を発せば)
不断煩悩得涅槃 (煩悩を断ぜずして涅槃を得る)
凡聖逆謗斉廻入 (凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば)
如衆水入海一味 (衆水の海に入りて一味なるが如し)
阿弥陀仏の力によって一念に信をおこし、阿弥陀仏の本願である救いを喜ぶ人は
自らの煩悩を断ちきらないまま、なにものにも揺らぐことのない静かで安らかな心の境地にたどりつく
凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に廻心帰入すれば
さまざまなどの川の水でも海に入ると一つの味になるように、みな等しく救われる
摂取心光常摂護 (摂取の心光は常に摂護したまう)
已能雖破無明闇 (已に能く無明の闇は破していると雖も)
貪愛瞋憎之雲霧 (貪愛や瞋憎の雲や霧は)
常覆真実信心天 (常にまことの信心の天を覆っている)
譬如日光覆雲霧 (しかし、たとえば日光が雲や霧に覆われても)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下は明るく闇がないようなものである)
獲信見敬大慶喜 (信を得て大いに喜び敬う人は)
即横超絶五悪趣 (すなわちよこさまに地獄・ 餓鬼・畜生・修羅・人・天のきずなをきる)
一切善悪凡夫人 (あらゆるすべての善悪の凡夫である人のだれでも)
聞信如来弘誓願 (如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者 (仏は広大勝解者とのたまい)
是人名分陀利華 (是の人を分陀利華と名づく)」
弥陀仏本願念仏 (弥陀仏の本願念仏は)
邪見驕慢悪衆生 ( 邪見驕慢の悪衆生)
信楽受持甚以難 (信楽受持すること甚だ以て難し)
難中之難無過斯 (難の中の難これに過ぎたるは無し )