教行信証 序と正信偈

『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)は、鎌倉時代初期の日本の僧・親鸞の著作である。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典である。正式な表題は『顯淨土眞實敎行證文類』と記述されている。


略称一般には『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)と略称する。本願寺三世覚如以前は『敎行證』(『教行証』)と称されていた。その他に『教行証文類』、『広文類』と略称される。宗派によっては『御本典』(本願寺派)、『御本書』(大谷派)などと略称する。

 

浄土真宗立教開宗の書真宗十派(真宗教団連合)では、親鸞が『教行信証』を制作したことをもって立教開宗とし、元仁元年(1224年)4月15日に草稿本が完成したとされ、4月15日を「真宗立教開宗記念日」と定めている。

 

教行信証は次の内容で構成されているが、このサイトではそのうち、総序・後序・正信念仏偈のみを取り扱う。これらは私が小学生の頃、祖父母の死に際し、うろ覚えながらに覚えたもので、懐かしく親しく思えるものであるからだ。


内容  

 

顕浄土真実教行証文類序「総序」と通称される。

顕浄土真実教文類一「教巻」と通称される。

顕浄土真実行文類二「行巻」と通称される。巻末に「正信念仏偈」(「正信偈」)と呼ばれる偈頌が置かれる。顕浄土真実信文類序「顕浄土真実信文類三」の前に「別序」と通称される序文が置かれる。

顕浄土真実信文類三「別序」を含めて「信巻」と通称される。

顕浄土真実証文類四「証巻」と通称される。

顕浄土真仏土文類五「真仏土巻」と通称される。

顕浄土方便化身土文類六「化身土巻」と通称される。「化身土巻」は「本」と「末」からなる。巻末の「竊かに以みれば聖道の諸教は行証久しく廃れ浄土の真宗は証道いま盛なり」以降の部分は「後序」と呼ばれる。

総序

 ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。 


かるがゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。 



 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。 


穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。 


ああ、弘誓の強縁は、多生にも値ひがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。 


たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。 




 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。 


浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語版より現代語訳

わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。


  ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提(信不具足、つまり仏法を信じず誹謗する者)のものを救おうとお思いになったのである。


  よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。


  このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれたすべての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。


  煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。


  ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願のなんとまことであることか。摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて疑いためらってはならない。


  ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。

後序

竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛(さかり)なり。
しかるに諸寺の釈門、教に昏(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷(まど)うて邪正の道路を弁(わきま)うることなし。


ここをもって興福寺の学徒、 太上天皇諱尊成、今上諱為仁  聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
 主上臣下、法に背き義に違し、忿(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ。


これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す。
あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。
 予はその一なり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。
このゆえに「禿」の字をもって姓とす。


現代語訳


わたしなりに考えてみると、聖道(しょうどう・自ら悟りを得ようとする仏教)のいろいろの教団は、生きた行ないと生きたさとりが、もうずっと前からすたれている。これに反し専修念仏の教団(浄土の真宗)は、生きたあかし(証)と生きた道が、今さかえている。それなのに古い寺院の僧侶たちは、かえってほんとうの仏教の教の精神に暗く、今の人間に対して何が真実(真)の扉を開き、何が偽り(仮)の扉をかまえているか。そのことを知らないでいる。京都の一般の学者も、どれが正しい行ないかについて迷っている。それゆえ、仏教の正しい道である専修念仏と、あやまった小路(こみち)である古い仏教とを、ハッキリ区別できないのである。


 こういうわけで、興福寺の学者・僧侶たちは朝廷に奏上(そうじょう・天子に申し上げる文書)をおくった。それは太上(たいじょう・だいじょう)天皇(後鳥羽上皇・ごとばじょうこう)と今上(きんじょう)天皇(土御門天皇・つちみかどてんのう)のとき、承元元年二月上旬のことである。天皇と朝廷の貴族たちは法に背(そむ)き、正しい道理(義)に従わず(たがい)、いやしい怒りに心をまかせ正しい専修念仏者にうらみ(怨)をいだいて害を加えた。


 そのため、専修念仏の正しい教えを、さかりに導いた方(かた)、法然(源空法師)と弟子たちが、ほんとうに罪があるのか、ないのか、を正しく考えようともしない。そして、不法にも住蓮・安楽たちを死刑にしてしまったのである。そのうえ、法然や弟子たちから僧としての身分を奪い、僧籍にない人として姓名を与えて、遠流(島流し)にした。わたしもそのひとりである。そういうわけだから、もはや、わたしは僧侶でもない。俗人(一般人)でもない。それゆえ、「禿(とく)」という字を、わたしの姓とすることとした。

(参考)阿闍世コンプレックス

闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。(総序より)

 阿闍世コンプレックス(あじゃせコンプレックス、英: Ajase complex)は古澤平作(1897~1968日本精神分析学会創設者・初代会長)が創唱し、小此木啓吾が広く流布させた精神分析の概念である。阿闍世とは、サンスクリット語で「アジャータシャトル」といい、未生怨すなわち出生以前に母親に抱く怨みの事を意味する。阿闍生コンプレックス、アジャセコンプレックスとも表記する。


概論


 母親は子供の出生に対して恐怖を持ち、子供はそれに対する怨みを持つとされ、日本ではエディプスコンプレックスと対比されることがある。フロイトのエディプスコンプレックスは父親と子供の間の葛藤を中心とし父性重視の傾向をもつが、阿闍世コンプレックスは母性重視の傾向を持つ。


 小此木は古澤の母親と子の間における葛藤が人格形成上現れるという阿闍世コンプレックス理論をオリジナルに再解釈し、理想的な母との一体感から、母によるその裏切りという段階を経て、怨みを超えた母子の許しの通じ合いに至るという3つの心理段階を通過するのであるとした。



 古澤による阿闍世の物語は、子供が無く年老いた王妃である韋提希(いだいけ、ヴァイデーヒー)夫人が「裏山の仙人が3年後に死んで、夫人にみごもり王子となる」という予言者(占い師)の言葉を受け、3年を待ちきれずに仙人を殺して生ませたと言うところに端を発する。


仙人は死ぬ間際に呪ってやると言い残したため、夫人は怖くなり堕ろそうともするが結局王子を産む。そうして生まれた阿闍世は、その呪われた運命を知り、父母を幽閉し父である王を死に至らしめるが、賢明な大臣の制止により母を殺すことは思いとどまる。その罪悪感から流注(るちゆう)という病気になり、最後には釈尊の教えに触れて懺悔し救いを得るという物語である。



 だが、仙人殺害の話は『教行信証』所引の『涅槃経』にも『仏説観無量寿経』にも見られず、実は古澤の創作であると小此木は指摘した。しかし、近年の研究により、古澤の阿闍世理解は、明治時代の浄土真宗の僧、近角常観の説に依っていることが明らかにされた (なお、その説も善導大師の『観無量寿経疏〈観経疏〉』に依るものと推察される)。


 母親の近代的とも言えるエゴイズムが描かれており、自分とは直接的には関係ないところで母親から怨まれていると感じているのが特徴的である。また、罰せられることから生じる罪意識よりも許されることを通じて生じる罪意識の方が価値が高いと主張されている事にも注目すべきである。


事実誤認について


 ただし、仙人の予言に恐怖心を抱いて仙人を殺害し、また阿闍世を殺そうとしたのは父王頻婆娑羅(びんばしゃら、ビンビサーラ)である。母親である韋提希は直接関与したわけではない。韋提希は、幽閉されてまともな食事も与えられなかったビンビサーラ王に、その身に蜜を塗って会いに行っていた。 阿闍世はそれを知ったので母親を殺そうとしたが大臣から止められ、後になって母親も幽閉した、というのが仏教の各経典から見られる記述である。


 これは手塚治虫の『ブッダ』でもこの見解によって描かれている。つまり母親に怨みを持っていたなら父親より先に母親にその怨みを晴らそうとするはずだが、まず父親を幽閉した後に母親を幽閉せしめている。したがって、本来、阿闍世の怨みは母親にではなく、あくまでも父王に向けられたものとするのが正しく、これらの経典内容に基づけば上記の説は事実誤認であり、阿闍世コンプレックスはエデイプスコンプレックスとするのが妥当であるといえよう。また松岡正剛もこの点を指摘し、古沢と小此木によって、阿闍世の怨みが父王ではなく母へと意図的な「改竄」がなされたと(ただし悪意ではなく、あくまでも肯定的に)指摘している。


 なお『涅槃経』には、仙人が3年後に死ぬ前に殺害したというくだりはないが、父王(頻婆娑羅)がビプラ山に鹿狩りに出た際に一頭も狩ができずにそこにいた仙人が追い払ったと思い込み臣下に殺させようとした。その仙人は死ぬ直前に怒りの心を起し頻婆娑羅に「来世において心と言葉であなたを殺害するだろう」と言った。釈迦は阿闍世に「父王は自らその罪による報いを受けただけで、そなたに罪はない」と言った、という記述がある。おそらくこの『涅槃経』の記述と、韋提希を主な登場人物とする『無量寿経|仏説無量寿経』など他の多くの経典の記述が善導によって混同され、それが誤解を生んだ原因となっていると推察される。

調達=提婆達多

提婆達多(だいばだった、Skt:Devadatta、デーヴァダッタ、音写:提婆、調婆達、調達、訳:天授、天熱)は、釈迦仏の弟子であったが、後に違背したとされる人である。
彼は釈迦族の諸王子たちと共に釈迦仏の弟子となったが、その後は釈迦に「五事の戒律」を提案するも受け入れられなかったので、分派して新しい教団をつくったという。
また、彼は三逆罪(さんぎゃくざい)を犯したため、生きながら無間地獄に落ちたといわれている。

正信念仏偈 対訳

帰命無量寿如来

南無不可思議光


法蔵菩薩因位時

在世自在王仏所

 

覩見諸仏浄土因

国土人天之善悪

建立無上殊勝願

超発希有大弘誓

 

五劫思惟之摂受

重誓名声聞十方

普放無量無辺光

無碍無対光炎王

 

清浄歓喜智慧光

不断難思無称光

超日月光照塵刹

一切群生蒙光照


本願名号正定業

至心信楽願為因

成等覚証大涅槃

必至滅度願成就


如来所以興出世

唯説弥陀本願海

五濁悪時群生海

応信如来如実言

 

能発一念喜愛心

不断煩悩得涅槃

凡聖逆謗斉廻入 

如衆水入海一味 

 

摂取心光常照護 

已能雖破無明闇 

貪愛瞋憎之雲霧 

常覆真実信心天 

 

譬如日光覆雲霧 

雲霧之下明無闇 

獲信見敬大慶喜 

即横超絶五悪趣 

 

一切善悪凡夫人 

聞信如来弘誓願 

仏言広大勝解者 

是人名分陀利華 

 

弥陀仏本願念仏 

邪見驕慢悪衆生 

信楽受持甚以難 

難中之難無過斯 


限りない命の如来に帰命し

思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる

 

法蔵菩薩の因位のときに

世自在王仏のみもとで

 

仏がたの浄土の成り立ちや

その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になって

この上なくすぐれた願をおたてになり

世にもまれな大いなる誓いをおこされた


五劫もの長い間思惟してこの誓願を選び取り

名号をすべての世界に聞えさせようと重ねて誓われたのである

 

本願を成就された仏は、

無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って

広くすべての国々を照らし、

すべての衆生はその光明に照らされる


本願成就の名号は衆生が間違いなく往生するための行であり

至心信楽の願[(第十八願)]に誓われている信を往生の正因とする


正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことができるのは

必至滅度の願[(第十一願)]が成就されたことによる

 

如来が世に出られるのは、

ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである

五濁の世の人々は

釈尊のまことの教えを信じるがよい


信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自らの煩悩を断ちきらないまま、

なにものにも揺らぐことのない静かで安らかな心の境地にたどりつく

凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば

どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる


阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる

すでに無明の闇は晴れても

貪りや怒りの雲や霧は、

いつもまことの信心の空をおおっている


しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、

その下は明るく闇がないと同じである

信を得て大いに喜び敬う人は

ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ち切られる


善人も悪人も、どのような凡夫であっても

阿弥陀仏の本願を信じれば

仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ

汚れのない白い蓮の花のような人とおほめになる


阿弥陀仏の本願念仏の法は、

よこしまな考えを持ち、おごりたかぶる自力のものが

信じることは実に難しい

難の中の難であり、これ以上に難しいことはない



印度西天之論家

中夏日域之高僧

顕大聖興世正意

明如来本誓応機


釈迦如来楞伽山

為衆告命南天竺

龍樹大士出於世

悉能摧破有無見


宣説大乗無上法

証歓喜地生安楽

顕示難行陸路苦

信楽易行水道楽


憶念弥陀仏本願

自然即時入必定

唯能常称如来号

応報大悲弘誓恩


天親菩薩造論説

帰命無碍光如来

依修多羅顕真実

光闡横超大誓願


広由本願力回向

為度群生彰一心

帰入功徳大宝海

必獲入大会衆数

 

得至蓮華蔵世界

即証真如法性身

遊煩悩林現神通

入生死薗示応化


本師曇鸞梁天子 

常向鸞処菩薩礼 

三蔵流支授浄教 

焚焼仙経帰楽邦


天親菩薩論註解 

報土因果顕誓願 

往還回向由他力 

正定之因唯信心


惑染凡夫信心発

証知生死即涅槃

必至無量光明土

諸有衆生皆普化


道綽決聖道難証

唯明浄土可通入

万善自力貶懃修

円満徳号勧専称


三不三信誨慇懃

像末法滅同悲引

一生造悪値弘誓

至安養界証妙果


善導独明仏正意

矜哀定散与逆悪

光明名号顕因縁

開入本願大智海

 

行者正受金剛心

慶喜一念相応後

与韋提等獲三忍

即証法性之常楽


源信広開一代教

偏帰安養勧一切

専雑執心判浅深

報化二土正弁立



極重悪人唯称仏 

我亦在彼摂取中 

煩悩障眼雖不見 

大悲無倦常照我

 

 

本師源空明仏教

憐愍善悪凡夫人

真宗教証興片州

選択本願弘悪世


還来生死輪転家

決以疑情為所止

速入寂静無為楽

必以信心為能入


弘経大士宗師等

拯済無辺極濁悪

道俗時衆共同心

唯可信斯高僧説

インドの菩薩方や

中国と日本の高僧方が

釈尊が世に出られた本意をあらわし

阿弥陀仏の本願は、私たちのために建てられたことを明らかにされた


釈尊は楞伽山で

大衆に、南インドに

龍樹菩薩が現れて

有無の邪見をすべて打ち破り


尊い大乗の法を説き

歓喜地の位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生するだろうと仰せになった

龍樹菩薩は、難行道は苦しい陸路のようであると示し、

楽に信ずる易行道は楽しい船旅のようであるとお勧めになる


阿弥陀仏の本願を信じれば

おのずからただちに正定聚に入る

ただ常に阿弥陀仏の名号を称え

本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよいと述べられた


天親菩薩は、『浄土論』を著して

「無碍光如来に帰命したてまるつる」と述べられた

浄土の経典にもとづいて阿弥陀仏のまことをあらわされ

横超のすぐれた誓願を広くお示しになり


本願力の廻向によって

すべてのものを救うため、一心すなわち他力の信心の徳を明らかにされた

本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば

浄土に往生する身とさだまる


阿弥陀仏の浄土に往生すれば

ただちに真如をさとった身となり

さらに迷いの世界に遊び還り、神通力をあらわして

自在に衆生を救うことができると述べられた


曇鸞大師は梁の武帝が

常に菩薩と仰がれた方である

菩提流支三蔵から浄土の経典を授けられたので

仙経を焼き捨てて浄土の教えに帰依された


天親菩薩の『浄土論』を注釈して

浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし

往相も還相も他力の廻向であると示された

浄土へ往生するための因は、ただ信心一つである


煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら

仏のさとりを開くことができる

計り知れない光明の浄土に至ると

あらゆる迷いの衆生を導くことができると述べられた


道綽禅師は、聖道門の教えによってさとるのは難しく

浄土門の教えによってのみさとりに至ることができることを明らかにされた

自力の行はいくら修めても劣っているとして

ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをお勧めになる


三信と三不信の教えを懇切に示し、正法・像法・末法・法滅、何時の時代においても、本願念仏の法は変わらず人々を救い続けることを明かされる

たとえ生涯悪をつくり続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば

浄土に往生しこの上ないさとりを開くと述べられた


善導大師はただ独りこれまでの誤った説を正して

仏の教えの真意を明らかにされた

善悪のすべての人を哀れんで、光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された


本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を廻向され

如来の本願にかなうことができたそのときに

韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、

浄土に往生してただちにさとりを開くと述べられた


源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて

ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にもお勧めになった

さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く化土にしか往生できないが

念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかに示された


きわめて罪の重い悪人はただにち念仏すべきである

わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども

煩悩が私の目をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら

阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てることなく常に照らしていてくださると述べられた


源空聖人は深く仏の教えをきわめられ

善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで

この国に往生浄土の真実の教えを開いて明らかにされ

選択本願の法を五濁の世にお広めになった


迷いの世界に輪廻することは

本願を疑いはからうからである

速やかにさとりの世界に入るには

ただ本願を信じる他にはないと述べられた


浄土の教えを広めてくださった祖師方は

数限りない五濁の世の衆生をみなお導きになる

出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに

ただこの高僧方の教えを仰いで信じるがよい


正信念仏偈

帰命無量寿如来

南無不可思議光


法蔵菩薩因位時

在世自在王仏所


覩見諸仏浄土因

国土人天之善悪

建立無上殊勝願

超発希有大弘誓


五劫思惟之摂受

重誓名声聞十方

普放無量無辺光

無碍無対光炎王


清浄歓喜智慧光

不断難思無称光

超日月光照塵刹

一切群生蒙光照


本願名号正定業

至心信楽願為因

成等覚証大涅槃

必至滅度願成就



如来所以興出世

唯説弥陀本願海

五濁悪時群生海

応信如来如実言

 

能発一念喜愛心

不断煩悩得涅槃

凡聖逆謗斉廻入 

如衆水入海一味 

 

摂取心光常照護 

已能雖破無明闇 

貪愛瞋憎之雲霧 

常覆真実信心天 

 

譬如日光覆雲霧 

雲霧之下明無闇 

獲信見敬大慶喜 

即横超絶五悪趣 

 

一切善悪凡夫人 

聞信如来弘誓願 

仏言広大勝解者 

是人名分陀利華 

 

弥陀仏本願念仏 

邪見驕慢悪衆生 

信楽受持甚以難 

難中之難無過斯 





印度西天之論家

中夏日域之高僧

顕大聖興世正意

明如来本誓応機

釈迦如来楞伽山

為衆告命南天竺

龍樹大士出於世

悉能摧破有無見

 

宣説大乗無上法

証歓喜地生安楽

顕示難行陸路苦

信楽易行水道楽

 

憶念弥陀仏本願

自然即時入必定

唯能常称如来号

応報大悲弘誓恩

 

天親菩薩造論説

帰命無碍光如来

依修多羅顕真実

光闡横超大誓願

 

広由本願力回向

為度群生彰一心

帰入功徳大宝海

必獲入大会衆数

 

得至蓮華蔵世界

即証真如法性身

遊煩悩林現神通

入生死薗示応化

 

本師曇鸞梁天子 

常向鸞処菩薩礼 

三蔵流支授浄教 

焚焼仙経帰楽邦

 

天親菩薩論註解 

報土因果顕誓願 

往還回向由他力 

正定之因唯信心

 

惑染凡夫信心発

証知生死即涅槃

必至無量光明土

諸有衆生皆普化

 

道綽決聖道難証

唯明浄土可通入

万善自力貶懃修

円満徳号勧専称

 

三不三信誨慇懃

像末法滅同悲引

一生造悪値弘誓

至安養界証妙果

善導独明仏正意

矜哀定散与逆悪

光明名号顕因縁

開入本願大智海


行者正受金剛心

慶喜一念相応後

与韋提等獲三忍

即証法性之常楽


源信広開一代教

偏帰安養勧一切

専雑執心判浅深

報化二土正弁立


極重悪人唯称仏 

我亦在彼摂取中 

煩悩障眼雖不見 

大悲無倦常照我 


本師源空明仏教

憐愍善悪凡夫人

真宗教証興片州

選択本願弘悪世


還来生死輪転家

決以疑情為所止

速入寂静無為楽

必以信心為能入


弘経大士宗師等

拯済無辺極濁悪

道俗時衆共同心

唯可信斯高僧説


ウィキペディアによる段落分け

「総讃」………「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

「依経段」 仏説無量寿経(大無量寿経)に依って明らかにされている、浄土往生の正因は信心であり、念仏は報恩行であることを説明し讃嘆している。

「弥陀章」…「法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就」

「釈迦章」…「如来所以興出世~是人名分陀利華」


「結誡」……「弥陀仏本願念仏~難中之難無過斯」




「依釈段」 インド・中国・日本でこの教えを正しく伝えた七高僧の業績・徳を讃嘆している。


「総讃」……「印度西天之論家~明如来本誓応機」

「龍樹章」…「釈迦如来楞伽山~応報大悲弘誓恩」

「天親章」…「天親菩薩造論説~入生死薗示応化」

「曇鸞章」…「本師曇鸞梁天子~諸有衆生皆普化」

「道綽章」…「道綽決聖道難証~至安養界証妙果」

「善導章」…「善導独明仏正意~即証法性之常楽」

「源信章」…「源信広開一代教~大悲無倦常照我」

「源空章」…「本師源空明仏教~必以信心為能入」

「結勧」……「弘経大士宗師等~唯可信斯高僧説」


現代語訳

限りない命の如来に帰命し

思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる


法蔵菩薩の因位のときに

世自在王仏のみもとで


仏がたの浄土の成り立ちや

その国土や人間や神々の善し悪しをご覧になって

この上なくすぐれた願をおたてになり

世にもまれな大いなる誓いをおこされた


五劫もの長い間思惟してこの誓願を選び取り

名号をすべての世界に聞えさせようと重ねて誓われたのである


本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って

広くすべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされる


本願成就の名号は衆生が間違いなく往生するための行であり

至心信楽の願[(第十八願)]に誓われている信を往生の正因とする


正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことができるのは

必至滅度の願[(第十一願)]が成就されたことによる

如来が世に出られるのは、

ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである

五濁の世の人々は

釈尊のまことの教えを信じるがよい


信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は

自らの煩悩を断ちきらないまま、浄土でさとりを得ることができる


凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば

どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる


阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる

すでに無明の闇は晴れても

貪りや怒りの雲や霧は、

いつもまことの信心の空をおおっている


しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、

その下は明るく闇がないと同じである

信を得て大いに喜び敬う人は

ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ち切られる


善人も悪人も、どのような凡夫であっても

阿弥陀仏の本願を信じれば

仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ

汚れのない白い蓮の花のような人とおほめになる


阿弥陀仏の本願念仏の法は、

よこしまな考えを持ち、おごりたかぶる自力のものが

信じることは実に難しい

難の中の難であり、これ以上に難しいことはない




インドの菩薩方や


中国と日本の高僧方が


釈尊が世に出られた本意をあらわし


阿弥陀仏の本願は、私たちのために建てられたことを明らかにされた

釈尊は楞伽山で

大衆に、南インドに

龍樹菩薩が現れて

有無の邪見をすべて打ち破り


尊い大乗の法を説き

歓喜地の位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生するだろうと仰せになった


龍樹菩薩は、難行道は苦しい陸路のようであると示し、

易行道は楽しい船旅のようであるとお勧めになる


阿弥陀仏の本願を信じれば

おのずからただちに正定聚に入る


ただ常に阿弥陀仏の名号を称え

本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよいと述べられた


天親菩薩は、『浄土論』を著して

「無碍光如来に帰命したてまるつる」と述べられた

浄土の経典にもとづいて阿弥陀仏のまことをあらわされ


横超のすぐれた誓願を広くお示しになり

本願力の廻向によって

すべてのものを救うために、一心すなわち他力の信心の徳を明らかにされた


本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば

浄土に往生する身とさだまる

阿弥陀仏の浄土に往生すれば

ただちに真如をさとった身となり


さらに迷いの世界に還り、神通力をあらわして

自在に衆生を救うことができると述べられた


曇鸞大師は梁の武帝が

常に菩薩と仰がれた方である

菩提流支三蔵から浄土の経典を授けられたので

仙経を焼き捨てて浄土の教えに帰依された


天親菩薩の『浄土論』を注釈して

浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし


往相も還相も他力の廻向であると示された

浄土へ往生するための因は、ただ信心一つである


煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら

仏のさとりを開くことができる


計り知れない光明の浄土に至ると

あらゆる迷いの衆生を導くことができると述べられた


道綽禅師は、聖道門の教えによってさとるのは難しく

浄土門の教えによってのみさとりに至ることができることを明らかにされた


自力の行はいくら修めても劣っているとして

ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをお勧めになる


三信と三不信の教えを懇切に示し

正法・像法・末法・法滅、何時の時代においても、本願念仏の法は変わらず人々を救い続けることを明かされる


たとえ生涯悪をつくり続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば

浄土に往生しこの上ないさとりを開くと述べられた


善導大師はただ独りこれまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた


善悪のすべての人を哀れんで、

光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された


本願の大いなる智慧の海に入れば

行者は他力の信を廻向され

如来の本願にかなうことができたそのときに


韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、

浄土に往生してただちにさとりを開くと述べられた


源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて

ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にもお勧めになった


さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く化土にしか往生できないが、

念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかに示された


きわめて罪の重い悪人はただにち念仏すべきである

わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども


煩悩が私の目をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら

阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てることなく常に照らしていてくださると述べられた


源空聖人は深く仏の教えをきわめられ

善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで

この国に往生浄土の真実の教えを開いて明らかにされ

選択本願の法を五濁の世にお広めになった


迷いの世界に輪廻することは

本願を疑いはからうからである


速やかにさとりの世界に入るには

ただ本願を信じる他にはないと述べられた


浄土の教えを広めてくださった祖師方は

数限りない五濁の世の衆生をみなお導きになる


出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに

ただこの高僧方の教えを仰いで信じるがよい