君の名は。

『君の名は。』(きみのなは)は、新海誠監督の長編アニメーション映画。2016年8月26日公開。

 

 

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立花 瀧(たちばな たき)- 神木隆之介
宮水 三葉(みやみず みつは)- 上白石萌音
奥寺 ミキ(おくでら ミキ)- 長澤まさみ
宮水 一葉(みやみず ひとは)- 市原悦子
勅使河原 克彦(てしがわら かつひこ)- 成田凌
名取 早耶香(なとり さやか)- 悠木碧
藤井 司(ふじい つかさ)- 島﨑信長
高木 真太(たかぎ しんた)- 石川界人
宮水 四葉(みやみず よつは)- 谷花音
宮水 俊樹(みやみず としき)- てらそままさき
宮水 二葉(みやみず ふたは)- 大原さやか
ユキちゃん先生- 花澤香菜
本作で「ユキちゃん先生」が登場する2013年9月の時点で『言の葉の庭』の雪野百香里は東京在住であった。(ウィキペディアより)

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東京の四谷に暮らす少年・瀧(たき)と飛騨の山奥で暮らす少女・三葉(みつは)の身に起きた「入れ替わり」という謎の現象と、1200年ぶりに地球に接近する彗星をめぐる出来事を描く。瀧がバイトをしているイタリアンレストラン「IL GIARDINO DELLE PAROLE」は、前作『言の葉の庭』のイタリア語版タイトル。(ウィキペディアより)

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ぐっちーランク               D

みんなのシネマレビュー(10点満点)  7.56点

Yahoo!映画(5点満点)          4.25点
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非常に評判の高い作品である。

悪くはない。うーん良くもない。

新海誠ワールドを、これで確定させるのかな。遠距離思慕。

 

遠距離恋愛ではない。遠距離恋愛は恋しあう二人が距離的に離れていること。

遠距離思慕は、気づくか気づかないかの違いはあるが恋心またはその前段階の思慕をいだく二人(長いので以下「恋思慕う二人」とする)が距離的に離れていく→『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』

恋思慕う二人に心の年齢的距離がある→『言の葉の庭』

恋思慕う二人のうち一人の心が、異次元という言葉も心も届かない遠距離まで行ってしまい長い間帰らない→『雲のむこう、約束の場所』

恋思慕うようになる二人が距離的に離れている、だけでなく、時間的に離れているつまり時空間の遠距離→『君の名は。』

 

鉄道、ロケットなどの可動機械の精密な描写、日常の何気ない一コマの切り取り、巧みな自然描写などの中に描かれる遠距離思慕。美しいよ、もの悲しいよ、でも。『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』のように、心に手を突っ込んでかきむしるような寂しさが、作品ごとにどんどん薄れていく。

 

ラストシーンが使い古されたものになるのはしょうがないが、エンジェルビートのβ板のように思えた。シュタインズゲート的終わり方もあったんじゃないかな。いったんすれ違うことで、その雰囲気を一瞬出していたけど。

 

もうひとつ。ミュージックのプロモーションビデオのロングバージョンにはならないで欲しい。

 

新海ワールドに もう一段のジャンプアップをのぞみたい。

 

(追記2016.11.05)

ゆきちゃん先生が、逢魔が時と黄昏とかわたれが同じ時を現すような説明をしていたが、古典の先生なら、そんな教え方はしないぞと思った。

 

私の高校時代(昭和40年代)には、黄昏は夕方、かわたれは朝方だと教わった。

 

詳しくは、昔はかわたれもたそがれも、要するに人の顔の判別がつかないほどに暗い時ということなので、朝でも夕でもよかったが、今はたそがれをもっぱら日没後の、かわたれを払暁の薄明に用いるようになった、と教わったのだ。

 

そのうえで、「明け方の薄明」は、朝まだき、黎明、払暁、早暁、薄暁、朝ぼらけ、夜明け前、日の出前、あけぼの、早朝、未明、あけやらぬ頃などたくさんの呼び名があるので、「彼は誰?」は「誰そ彼?」と対で使う以外、あまり使われていないとも教わった。

 

ゆきちゃん先生も古典の先生なんだから、詳しく教えましょうよ。

 

ただ、「結婚とは自分の魂の片割れとの出会い」とか、「恋とは自分のもう一つの半身をさがすこと」などという、古くから言われてきた言葉も、この映画のテーマのひとつだと思われるから、その「かたわれ」を出すために「かわたれ」を使いたかっただけかもしれない。新海誠は、あまり国語が得意でなかったのかな、とも思った。日本語の間違いによる違和感には、人一倍敏感なので御免。

 

つまり、「海のもずくと消える」と言った後、今のは言い間違いではなく、この地方の方言だ、と言ってるような、漱石枕流+我田引水を違和感と感じたため、あとはまあ、この程度の日本語能力ならこんなものかと、作品自体が軽く感じられたのです。明らかな間違いを方言として残すような地方はないと思うし、日本語をそんなに適当に自分流に作って欲しくない、個人的に使ったりギャグで使うならともかく、映画という準公共な場で、まだ日本語の学習途上にある若者を対象に、使って欲しくないと思う。

 

 もし本当に「かわたれ」を「かたわれ」という地方が存在したら、新海監督にもその地方の人にも謝らなくてはならないけどね。

 

 (追記5017.01.18)

 

新海監督の発想はこうではないかという図式を、あえて直線的に表してみる。

1.作品の概念、大外枠

遠距離恋愛

 

 空間的遠距離恋愛→「ほしのこえ」、「秒速5センチメートル」

 心的遠距離恋愛→「雲のむこう、約束の場所」→相手の心が物理的に閉ざされて届かない

 心理的距離恋愛→「言の葉の庭」→年齢差を必要以上に心の壁にしてしまい、距離をはかれない

などをやってきたので次は

→☆時空間距離恋愛

 互いの時空間が、大きく離れたり接近したり、まるで恒星を回る彗星のよう?!

 一つの彗星が 二つに割れて 互いが互いに片割れを求めてさすらうような

「人は片割れとして生まれ出で、片割れを探して生きる」ものだという原則をより鮮明に描く

 (胎盤+胎児=楽園⇒胎盤を離れ片割れとして誕生=失楽園⇒片割れを求めて恋をする)キリスト教的恋愛観

彗星の片割れの話を人間に当てはめるのはむつかしい⇒お互いのありかを感じながら時空間的に離れてなかなか巡り合えない

「転校生」的入れ替わり+「君の名は」的すれ違い

 

2.「片割れ」の話にするとしたら、多少強引だが「かわたれどき」と結び付けたらどうだろう。

「かわたれ」は、現在では未明に用いられることが多いが、「たそかれ」を「かわたれ」という地方があってもおかしくはない。さらに地方訛りで「かわたれ」を「かたわれ」と表現する地方があると設定したらどうだろう?それを 雪野先生に開設させれば「言の葉」ファンも喜ぶのでは。

 

… こんな単純な発想でやっつけたんじゃないだろうけどね。

 

母音が変化せず子音だけが変化する方言も珍しい。江戸弁みたいにhの発音ができずにshに変わることはあるけど、「かたわれ」が発音できれば「かわたれ」も発音できるはず。「片割れ時」、かなり強引な方言設定。ここで引っかかると、もはや感情移入どころではなく、本編も上っ面で流れてしまう。

 

 

(国立東京博物館 神将像)

「かわたれどき」は本作公開の年の1月、つまりまだ本作の製作中にアニメ昭和元禄落語心中のエンディングテーマに使われていたが、これは偶然であると思っている。両者の関係が取りざたされないのも、昭和元禄落語心中が本作の半年以上前に放送されたものであり、本作の構想も2014年から2015年には完成しており、どちらも互いに影響されたとは考えにくいからだろう。すばらしい偶然。「彼は誰時」。

 

昭和元禄落語心中
第1期が2016年1月から3月
エンディングテーマ「かは、たれどき」作曲・編曲 - 澁江夏奈

 

君の名は。
2016年8月26日公開
2016年 1月、レイアウト完成。2-3月、小説執筆。7月、完成。

母音がそのままで子音が入れ替わるような方言はありえない、と私は思っている。単なるいい間違いを、強引に押し通そうとしているとしか思われないからである。

例えば

私⇔たわし

もずく⇔もくず

心⇔ロココ

などど変わる方言は(新海誠地方以外には)存在しないと思う。あれば楽しいが。とにかく設定が強引すぎる。

夕方、人の顔の判別がつきにくくなるので「誰そ彼」(たそかれ)、もしかしたら別人かもしれないので「人もし頃」(ひともしころ)⇒などと教える先生もいないし方言もない。「ひともしころ」は「灯、灯し頃」。

まずこの「かたわれどき」の設定が強引すぎて、感情移入阻害の第1要因となる。

 

阻害第2要因は、いろいろなレビューで書かれていることだが、滝と三葉は入れ替わり当初から三年のずれに気が付くはずであるということ。1年に1日、うるう年には2日、曜日がずれていく。ノートやスマホに月日と曜日を入れているはずだし(スマホなど日付を入れれば曜日は自動でも入る)、滝のアルバイトシフトも基本曜日のはず。三年のずれになかなか気が付かないという設定も強引すぎる。

 

 入れ替わりの初期、三葉は滝のスマホのDIARYをじっくりチェックしている。

まあ、ここでも20日日曜日が終業式だったり設定の破綻が目につくが、この曜日と日付は2014年7月のものである。その3年前2011年だと、2012年がうるう年なので、曜日的には4日ずれる。いくら夢だと思っていても曜日の違和感はあるはず。

 

しかしこの考察も無駄。隕石落下は2013年10月4日と設定されている。ということはスマホの日付は2014年7月ではなく2016年のもの。20日が日曜なのは3月と11月。31日まであるので3月。すると夏服なのはおかしい。10月4日に浴衣着て夏祭りもおかしいしね。というふうに設定ができていない。

滝が「彗星」という言葉から、わずか3年前、滝にとって高校受験の年の大事件「ディアマト彗星落下。」をすぐに想像できないのもおかしいし、夢の中にせよ「糸守」の名から、同じく「糸守町大災害=彗星落下」を思い出せないのもおかしい。

 

とにかく、設定の破綻が多すぎて、本編の内容が表面的に流れ去る、私にとっては残念な映画である。

劇場版アニメの「図書館戦争」とともに、設定がひどすぎて本編に入れない作品の双璧である。

 

評価はC-、D+といったところか。他の新海作品が好きなことと、映像の美しさで評価圏内にとどまった。

 

 

20170210

5度目の試聴。ラスト30分は感情移入できる。評価Cに戻す。みんなのシネマレビューでは2016年10月に6点を計上したが、なかなか。

 

ラスト5分、2021年東京、オリンピックも終わり、完全に日常を取り戻した街。

 (以下工事中)