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帰命無量寿如来 南無不可思議光
帰命無量寿如来 (無量寿如来に帰命し)
南無不可思議光 (不可思議光に南無したてまつる)
目次
•聖人90年の教えのすべてがおさまる正信偈
•本師本仏の阿弥陀如来
•救われた、助けられた
•死んでからの救いではありません
親鸞聖人90才
帰命無量寿如来
南無不可思議光
聖人90年の教えのすべてがおさまる正信偈
親鸞聖人のお書き作された『正信偈』は、
「正しい信心を、偈(うた)の形で明らかにされたもの」
です。
「幸せになるには、正しいものを信じなさいよ」と
九十年の生涯、叫び続けられた方が親鸞聖人であり、
『正信偈』には、その教えのすべてがおさまっています。
一般には、「その人がよいと思うものを、信じていればよいのだ、
他人がとやかく言う問題じゃない」というのが常識でしょうが、
聖人は、そのようには言われていません。
私たちが幸福になれる「正しい信心」と、不幸にする
「迷信、邪信、偽信」とがあることを、明言されているのです。
しかも「正」という字は「一に止(とど)まる」と書くように、
正しいものは一つしかない。二つも三つもあるものではありません。
そのたった一つの「正しい信心」を鮮明にされ、
「皆さんどうか、正信心を獲て、まことの幸せになってくれよ」と
教え勧められているのが、『正信偈』なのです。
朝晩、勤行で『正信偈』を拝読することは、
親鸞聖人の教えを親しく聞かせていただくことですから、
いかに大切かお分かりでしょう。
では、正しいものとは何か。
正しいものを信ずるとはどういうことなのでしょうか。
親鸞聖人自らが、正しい信心を獲得して、絶対の幸福に救い摂られた
喜びを叫ばれているのが、冒頭の、
帰命無量寿如来
南無不可思議光
の二行です。これは、
「親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
親鸞、不可思議光に南無いたしました」
と言われているお言葉です。
どこにも「親鸞」とはありませんが、
これは、「向かいのおじさんが無量寿如来に帰命した」
と言われているのでもなければ、「妻が不可思議光に南無した」
と言われているのでもない。
聖人ご自身のことをおっしゃっているのですから、
「親鸞は」ということになります。
本師本仏の阿弥陀如来
「無量寿如来」「不可思議光」とは、
阿弥陀如来のことです。
阿弥陀如来は、
「阿弥陀仏」
「弥陀如来」
「弥陀」とも言われる仏さまのことで、
蓮如上人は、
弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり
と言われています。
地球上で仏のさとりを開かれた方は、お釈迦様だけです。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われます。
しかし、大宇宙には、地球のようなものは無限と言っていいほど
ありますから、数え切れないほどの仏さまが大宇宙にましますのだと、
お釈迦様は説かれています。これらの仏方のことを、蓮如上人はここで
「三世十方の諸仏」と言われているのです。
「三世十方」とは、仏教では大宇宙のこと。
大日如来や薬師如来、よく知られている奈良の大仏はビルシャナ如来と
言われる仏ですが、皆、三世十方の諸仏のお一人です。
その大宇宙にまします仏方の、本師本仏が阿弥陀如来である、
と言われている「本師本仏」とは、仏の中の王様、先生の仏、指導者のことで、
すべての仏方は、皆、阿弥陀如来のお弟子ということになります。
お釈迦様も、「三世十方の諸仏」の中の一仏ですから、
阿弥陀如来とお釈迦様の関係は、先生と弟子、師弟関係なのです。
弟子の使命は、先生の御心を一人でも多くの人に伝えること以外には
ありませんから、弟子であるお釈迦さまは、先生である阿弥陀如来のこと
ばかり教えていかれました。
本師本仏と仰がれるのは、たくさんの凄い力がある、
他の仏とは桁違いの仏徳をそなえておられるからです。
阿弥陀如来は、そのお徳、力に応じて色々なお名前を
持っておられ、中でもよく言われる二つが、
「無量寿如来」と
「不可思議光如来」ですから、
親鸞聖人は『正信偈』の最初に、阿弥陀如来のことを、
この二つのお名前で呼ばれているのです。
救われた、助けられた
次に、「南無」はインドの昔の言葉、
「帰命」は、中国の昔の言葉です。
周知のとおり、仏教はお釈迦様がインドで説かれ、
中国に土割り、韓半島を経て日本に伝来しました。
ですから、仏教ではインドの言葉、中国の言葉がよく使われています。
「南無」はインドの発音に漢字を当てた音標文字で、字そのものに
意味はありません。それが中国に伝わり
「帰命」という言葉に翻訳されたので、
「南無」と「帰命」は同じ意味です。
日本の言葉では、
「救われた」「助けられた」
ということですから、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
の二行は、
「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ」
と、同じことを二回おっしゃっているお言葉であることが
分かります。
二回ということは、二回だけでなく何度も言わずにいられない、
どれだけ書いても書き尽くせぬ喜びを、表されているのです。
日常生活でも、何度も同じことを言うことがありますね。
例えば、夜、お母さんが台所で食事の準備をしている時、
突然、停電しました。
懐中電灯もなく真っ暗闇。一時間たっても、二時間たっても、
電気がこない。
もう今晩は、食事もせずに寝るしかないのかと
あきらめ、困り果てていたその時、家中の電気が
パッとついたならば、
「ついた、ついた、ついた」
お母さんも、居間の子供たちも、書斎のお父さんも、
口々に叫ぶでしょう。
大学入試でも司法試験でも、苦心惨憺の末にやっと受かった時の
喜びはどうでしょう。
「受かった、受かった、やったやったー」と飛びはねます。
待って待って待ちわびて、求めても得られず苦しんでいたものが、
獲られた時には、その喜びから何度でも同じことを言わずにいられない
ではありませんか。
では、親鸞聖人が『正信偈』の最初に、
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
とくり返し叫ばれたのは、何が救われたからなのか。
どんなことを阿弥陀如来は助けられたのでしょうか。
「救われた」「助けられた」といっても、色々あります。
のどが渇いてカラカラの時、冷たい清水をふんだんに与えられ、
ガブガプッと飲んだ。のどの渇きがいやされたのも、
「救われた」といいます。
腹痛で転げ回っていたところ、名医の注射一本でケロッと完治したことも、
「救われた」です。遭難した冬山で死にかけたところを発見され、
ヘリコプターで引き上げられたことも「助かった」といいます。
借金の返済に苦しみ、自殺の準備をしていた時、慈善家が何億と無償で
くれたならば、やはり「助かった」です。
しかし、親鸞聖人が、阿弥陀如来に「救われた」「助けられた」と
言われているのは、そんなことではありません。
確かに肉体の命や借金の重荷を救われた喜びは格別ですが、一時的です。
病気が治っても再発するかもしれませんし、
別な病に襲われるかもしれない。
死ななくなったわけでは勿論ない。死ぬのが少し先に延びただけ。
永遠の救いというものは、この世にはありえないのです。
ところが、親鸞聖人の「阿弥陀如来に救われた、助けられた」
とは、「未来永遠の、絶対の幸福に救い摂られた」
生命の大歓喜であり、
「人間に生まれたのは、これ一つであった」
と人生の目的が成就した慶喜の叫びなのです。
死んでからの救いではありません
親鸞聖人の教えを、漢字4字で表された言葉が「平生業成」
聖人九十年の教えを一言で、と尋ねられたら、「平生業成」と
答えれば満点です。
ところが、その大事な平生業成という言葉が誤解されて
使われているのが、悲しい現状です。ほとんどの人が
「平生の行い」のように思っているのです。
では、正しい意味は、どういうことか。
「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在ということです。
「業」とは、人生の大事業のこと。
大事業と聞きますと、
徳川家康の天下統一の事業や、松下幸之助の業績などのことと
思われるかもしれませんが、親鸞聖人が大事業とおっしゃっているのは、
「人生の大事業」
言葉を換えると、「人生の目的」です。
何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きなければならないのか。
自殺してはいけないのか。
それは「これ一つのためであった」といえるものを
「人生の目的」といい、
達成した時に、「人間に生まれてよかった」という
生命の大歓喜が起きるのです。
金メダルや、ノーベル賞を取ることは、確かに最高の栄誉です。
それぞれに、涙ぐましい努力があっての結果に違いありませんが、
その喜びもどれほど続くでしょう。やがては色あせてしまいます。
「歴史に名前が残る」という人もありますが、
残ったところで、死んだ本人にとっては、どんな意味があるのでしょう。
親鸞聖人がここで「大事業」とおっしゃっているのは、
そういうことではありません。
「無碍の一道」へ出たことを、人生の目的と言われているのです。
何ものも碍りとならない絶対の幸福。
生きてよし、死んでよしの世界に出ることなのだと、
親鸞聖人は
念仏者は無碍の一道なり (『歎異抄』第七章)
と宣言されています。
それは色あせることのない、永遠に続く幸せです。
最高無比の喜びであり、満足なのです。
その人生の大事業が、「完成した」ということがあるのだ、
ということが、業成の「成」です。
「死んだら極楽」
「死んだらお助け」ではないぞ、
生きている現在ただ今、
無碍の一道へ出たという時が来るのだ、早くその人生の目的を
完成しなさいよと教えられた方が親鸞聖人ですから、
「平生業成」といわれるのです。
『正信偈』の初めに、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、助けられたぞ」
と言われているのは、
「この世で助かったということがある、信仰に卒業があるんだ、
死ぬまで求道ではないのだ」ということです。
あなたは、こんなことが信じられますか?
とても想像もできないでしょうが、これはしかし、
平生業成の身に救い摂られた聖人の、
言い尽くせぬ大歓喜であり、
この「阿弥陀如来の救い」こそが
「正しい信心」なのだ、と言われているお言葉なのです。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
法蔵菩薩因位時 (法蔵菩薩因位の時)
在世自在王仏所 (世自在王仏の所に在して)
覩見諸仏浄土因 (諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪 (国土・人天の善悪を覩見して)
建立無上殊勝願 (無上殊勝の願を建立し)
超発希有大弘誓 (希有の大弘誓を超発せり)
目次
•親鸞聖人はどうして救われたのか
•法蔵菩薩とは?
•法蔵菩薩の願い
•すべての人を助けるご計画
•大宇宙の諸仏が建てられなかった誓い
親鸞聖人はどうして救われたのか
正信偈の冒頭に、親鸞聖人は、
阿弥陀仏にこの世で絶対の幸福の身に救われた
言い尽くせない喜びを、
「帰命無量寿如来(親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ)
南無不可思議光(親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ)」
と言われています。
では親鸞聖人は、
どうして絶対の幸福に救い摂られたのでしょうか。
親鸞聖人が、
「どうしてこの身になれたのか、
このようなことがあったからなんだ」
と教えられているのが、今回お話しするところです。
法蔵菩薩とは?
まず
「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」は、
「法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所にましまして」
と読みます。
「法蔵菩薩」とは、阿弥陀仏のお名前です。
「因の位」とは「果の位」である仏のさとりを目指して
たねまきに精進している菩薩の位ですから、
「因位の時」とは、阿弥陀仏がまだ仏のさとりをひらかれる前、
法蔵菩薩といわれていた時
ということです。
その時、自ら世自在王仏という仏のお弟子になられた
ということが、
「世自在王仏の所にましまして」
ということです。
菩薩になったら、師を持たねばなりません。
そこで、法蔵菩薩は、
世自在王仏という仏の弟子になられました。
これは、どういうことだろう。
阿弥陀仏は、本師本仏ではなかったのかと
疑問に思われる方もありましょう。
もっともな疑問です。
阿弥陀仏は本師本仏ですから、
すべての仏様の先生であり、師匠なのですが、
私たちを助けるために、わざわざ仏の座を降りられ、
菩薩になられたということです。
これを「従果降因」といいます。
ちょうど親が子供を喜ばせるために、
一緒に遊んでやろうとする時でも、
親が将棋が好きだからといって、
はいはいしている子供に、
「おいお前、将棋の相手になれ」
といっても、とても相手はできません。
そんな時は、遊んでやるには子供の世界へ
降りていくしかありません。
そうでなければ、子供と縁が持てないのです。
積み木遊びがやっとやっとの子供には、
その子供のレベルまで親の方から降りて、
子供と交流を持ちます。
親からいうと、
積み木遊びは面白くも何ともないのですが、
子供のために、一緒に積み木遊びをしてやる
ということです。
私たちを何とか助けようと、
阿弥陀仏が法蔵菩薩と従果降因された目的は
そこにあります。
それで法蔵菩薩に成り下がられて、
ご苦労されたのです。
ではどんなご苦労をなされたのでしょうか。
法蔵菩薩の願い
ある時、法蔵菩薩は、
「お師匠様、ぜひお願いがあります」
世自在王仏の御前に両手をつかれました。
世自在王仏が、
「法蔵よ。どんな願いか」
と尋ねると、
「お師匠様、ご存じのことと思いますが、
すべての人は、このままでは後生は大変なことになります。
何とか助けさせて頂きたいのです。よろしいでしょうか」
とお願いになりました。
「すべての人は、一生悪しか造れない、煩悩具足の者、
このままでは未来永遠、苦しみ続けなければなりません。
どうか助けさせてください」
と懇願なされたのです。
本来は、助けてもらう私たちが
「どうか助けてください」
とお願いしなければならないのですが、
このように、助ける方が
「助けさせてください」
と言われるのは、世間にないことです。
ところが、大宇宙の諸仏にも見捨てられた
一生造悪の者には、
助けてくださいという心もありませんので、
法蔵菩薩が、
「私に助けさせてください。
どうかお許し頂けないでしょうか」
と師匠に手をつかれたのです。
その時、世自在王仏は、
「法蔵よ、まことに尊い願いである。
だが、十方衆生がどんな者か知ってのことか」
「それはよく分かっておりますが、
苦しんでいる人たちを見ていると、
とてもじっとしてはおれないのです」
「だがなあ、思いとどまった方がよかろう。
そなたも知っての通り、十方諸仏も一度は助けようとしたけれど、
罪が重すぎてとても助けることができなかった。
かわいそうだが、見捨てるしかなかったのだよ」
「お師匠様、それはじゅうじゅう承知しております。
だからこそ、私が助けなければ、
十方衆生は永遠に助かりません。
お願いでございます。どうか助けさせてください」
それでも世自在王仏は、
自分の弟子に無駄な苦労をさせたくはありません。
「罪悪深重の者を助けるのは、いかに困難なことか。
そなたにそんな無益な苦労はさせたくない。
気持ちは尊いが、やめておきなさい」
弟子を思う師の心です。
ところが法蔵菩薩は、一歩も引かれず、
「しかし、どうしても見てはおれないのです。
何とか助けさせてください」
と重ねとお願いになります。
何とかしようとして何とかなるのなら
苦労のしがいもありますが、十方衆生は救われる縁なき者たち。
世自在王仏は、何度も翻意を促すのですが、
何度言っても、
法蔵菩薩が、何度も熱心にたのむので、
最後の切り札を出しました。
「そなたの意志は、固いのお。
いくら言っても心は変わらないのか。
では、一つの譬えで話をしよう。
十方衆生を助けることは、
ただ一人、貝殻で海の水をくみとって、体をぬらさずに、
海底の宝をとってくるより難しいのだぞ」
海にはどんどん川から水が流れ込んで来ますから、
貝殻どころか、世界中の消防ポンプを使っても、
とても無理でしょう。
世自在王仏は、不可能なことを言ってあきらめさせようとしたのですが、
それでも法蔵菩薩の心は微動だにもされません。
この、何度あきらめよと言われてもあきらめきれず、
何とか助けさせてくださいと法蔵菩薩が願われたのは、
ものすごい力でした。
それをとめることは、
誰もできない、何ものにもできないということです。
これを「法蔵の願心」と言います。
これこそ阿弥陀仏の願力です。
この願心がなければ、私たちは、
仏法をきくようなものではありません。
仏法は真実ですから、真実のかけらもない私たちには、
聞く心はないのです。
聞く心のない私たちが、
どこから聞く心が出てくるのかというと
阿弥陀仏の御念力に、引っ張られ、押し出されているのです。
こうして、
「助けさせてください」
「やめておけ」
「助けさせてください」
「やめておけ」
と何回も何回もやりとりされて、
ついに世自在王仏は、
「これだけ言ってもあきらめられないなら」
と根負けされました。
ようやく師匠の許しが受けられたのです。
法蔵菩薩は、
「万歳、万歳、万々歳、どうもありがとうございます」
と心から喜ばれ、
「それなら、どうやって助けるか」
すべての人々を助ける計画を立てられました。
すべての人を助けるご計画
それが次の
「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」
です。
これは
「諸仏浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して」
と読みます。
「覩見して」とは
「ご覧になられて」「調査されて」ということです。
大宇宙には数え切れないほどの諸仏がましますということは、
それらの方々がまします浄土が、
大宇宙には数え切れないほどあるということです。
そして仏様には、必ず願いがあります。
それは、苦しみ悩む人を、どのように助けようかという願いです。
「諸仏浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して」
ということは、法蔵菩薩はまず、
大宇宙の諸仏方が、
どのような浄土を作られたのか
その浄土はどのようにしてできたのか
その浄土に住んでいる人々はどんな人なのか
その善悪をを徹底的に調査されたということです。
そうでなければ、諸仏が助けることのできなかった
十方衆生を助けられるはずがありません。
私たちも、家を建てる時、
学校に近いか、
スーパーに近いか、
近くの住人はどんな人たちか、
全体の間取りはどうか、
耐震構造はどうか、
使い勝手や居心地はいいか、
色々なことを調べます。
そして、設計し、施工して、
ようやく一軒の家が建ちます。
わずか一軒建てるだけでも大変な苦労があります。
ましてや本師本仏の阿弥陀仏が
「最高無上の極楽浄土を建立してみせる。
そしてすべての人々を、わが浄土に生まれさせてみせる」
という、願いをおこされたのですから、
大宇宙の諸仏の浄土がどのように建てられたのか
その浄土に住んでいる人々の善悪をご覧になられて、
その善いところを選び取られ、
悪いところを捨てられて、
「すべての人を助けられる最も優れた浄土、
極楽浄土を建立してみせる」
という願いをおこされた、ということです。
また、大宇宙の諸仏方の本願には、
「どのようにすれば救う」
「こうしてこうなった者は助ける」
という条件があります。
しかし、それでは十方衆生は救われません。
そこで阿弥陀仏は、無条件で、
ただのただもいらんただで助けるという本願を
建てられました。
世間の宗教でも、必ずなんらかの条件がありますが、
「絶対無条件で助ける」
という教えは大宇宙にありません。
だから親鸞聖人は、次に
「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」
とほめたたえておられます。
大宇宙の諸仏が建てられなかった誓い
これは、
「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」
と読みます。
「建立」も「超発」も同じ意味で、
おこされたということです。
「無上殊勝の願」も
「希有の大弘誓」も同じ意味で、
阿弥陀仏の本願のことです。
「無上」とは、これ以上のものがない、
「殊勝」とは、ことにすぐれた、ということですから、
阿弥陀仏の本願は、大宇宙のたくさんの仏様の
本願の中でも最高なんだ、ということです。
「希有」とは、大宇宙に2つとない、
大宇宙の他の諸仏の建てることのできなかった、
ということです。
「大」は変わらない、
「弘誓」とは、阿弥陀仏の本願は、
すべての人を助けるというひろい誓いですから
「弘誓」と言われています。
このような素晴らしい願いは、
大宇宙にたった1つしかありませんから、
親鸞聖人は、
「無上殊勝の願を建立された」
「希有の大弘誓を超発された」
と称讃されているのです。
このように
「法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所に在して
諸仏浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」
とは、親鸞聖人が、
法蔵菩薩がこのやりとりをして下されたなればこそ、
親鸞は、この身に救われることができたのだ。
大宇宙に2つとない希有の大弘誓をおこしてくだされたからこそ、
親鸞は絶対の幸福に救いとられることができたのだ。
まったく阿弥陀仏のお力だったなあ。
と讃嘆なさっているお言葉です。
五劫思惟之摂受
五劫思惟之摂受 (五劫に之を思惟して摂受したまう)
目次
•阿弥陀仏が本願を建立せられた
•五劫に之を思惟し摂受したまう
これは『五劫に之を思惟して摂受したまう』と読みます。
之をといいますのは、
この前の、『無上殊勝の願』『希有の大弘誓』
のことをおっしゃっています。
この前は、
『無上殊勝の願』を建立せられた。
『希有の大弘誓』を超発せられた。
建立無上殊勝願
超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受
阿弥陀仏が本願を建立せられた
『無上殊勝の願を建立せられた』
『希有の大弘誓を超発せられた』
『無上殊勝の願』も
『希有の大弘誓』も同じ意味で、
阿弥陀仏の本願のことです。
阿弥陀仏は、
どんな人をも必ず助ける 絶対の幸福に
とお約束されています。
「無上」とは沢山の仏様の立てられた本願の中でも、
最高なんだということです。
殊にすぐれているということで、殊勝とおっしゃっています。
希有とは、二つとない
大とは、絶対変わらないということです。
この二行は同じ意味で、
大宇宙の仏方の王である阿弥陀如来が、
大宇宙最高の本願を建てられた
ということです。
五劫に之を思惟し摂受したまう
次に、五劫思惟とは、
五劫とは、気の遠くなるような長い期間をいいます。
一劫は4億3200万年ですから、その5倍です。
その阿弥陀仏の本願を、
五劫の間思惟せられたということです。
思惟とは、思案された、考えられたということです。
どうすれば、十方諸仏に見捨てられた私たちを
助けることができるかということで考えられた。
五劫の間考えられたのは、
いくらその約束が無上であり、
希有のものであっても、
実際自分のできない事を約束しては、
みんなを救うことはできませんから。
間違いなく実行できるということを、
五劫の間考えられた。確認なされた。
だから空手形ではありません。
弥陀の誓いというのは、決して
「できるやらできないやらわからないもの」ではないんだ。
『この通り果たせる』
ということを確認せられた本願だ。
と親鸞聖人がおっしゃっているのが、
五劫思惟之摂受
『五劫に之を思惟して摂受したまう』
というお言葉です。
重誓名声聞十方
重誓名声聞十方 (重ねて誓うらくは
「名声十方に聞こえん」と)
目次
•阿弥陀仏の命をかけてのお約束
•何を重ねて誓われたの?
阿弥陀仏の命をかけてのお約束
これは「重ねて誓うらくは『名声十方に聞こえん』と」と読みます。
「重ねて誓うらくは」とは、
重ねてお約束されたということです。
阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩と言われていたとき、
師の世自在王仏の前で48の願いを述べられ、
その18番目の願(18願)に
「どんな人をも 必ず絶対の幸福に救い、わが浄土に生まれさせてみせる」
とお約束なさっています。
これを「阿弥陀仏の本願」といいます。
このお約束を果たされる為に、
その前の17番目の願(17願)に
「すべての人を絶対の幸福に救う力のある名号をつくってみせる。
その名号をほめない仏が大宇宙に一仏でもあれば、
私は仏になりません」
とお約束されています。
「名号」とは阿弥陀仏のお名前のことで、
「南無阿弥陀仏」の六字のことを言います。
そのうえで法蔵菩薩は、
「もしすべての人を絶対の幸福に救い、極楽浄土に生まれさせる。
もしできなければ、仏のさとりを捨てましょう」
と、仏さまの命である正覚(仏のさとり)をかけて、
18願にかたく誓われたのです。
ですから本当はこれで十分なのですが、
「重ねて誓うらくは」ということは、
その上に、さらに重ねて誓われているということです。
それは、私(法蔵)が命をかけて誓っても、
お前たち(衆生)は本願を疑って、なかなか聞こうとしないだろう、
信じてくれないだろう、と見抜かれ憐れんで、
これでもまだ疑うか、どうか信じてくれ、と、
私たちの疑いを晴らすために、重ねて誓われたのです。
ではどのように誓われたのでしょうか。
何を重ねて誓われたの?
それが「名聞十方に聞こえん」というお言葉です。
「名声」とは名号(南無阿弥陀仏)のことです。
「十方に聞こえん」とは、
「十方」とは大宇宙のことですから、
私が仏になったならば、
大宇宙のすべての諸仏がほめたたえるであろう、
ということです。
それは、
「どんな人をも 必ず絶対の幸福に救い、極楽浄土に生まれさせる」
という本願を果たす力のある名号ですから、
十方の諸仏が驚いて、
「阿弥陀仏はすごい仏さまだ」
「さすがは我らの師匠だ、本師本仏だ」
と、異口同音に称讃して、
念仏の声が大宇宙に響きわたるであろう。
ということは、仏方だけではなくて、
十方衆生、大宇宙のすべての人に、
必ず名号(南無阿弥陀仏)を聞かせ、
称えさせてみせるということです。
大宇宙のすべての仏がほめたたえる名号をつくって
必ずお前たち(十方衆生)に聞かせてみせる。
南無阿弥陀仏を与えて助けてみせる。
だから、どうか聞いてくれ。必ず聞こえるのだから。
もし聞かない者がいるならば、
私は仏にならないんだ。
なったからには、必ず聞かせてみせる。
阿弥陀仏はここで、正覚(仏の命)をかけて、
「名声十方に聞こえん」
と、重ねて誓っておられるのです。
すべての人を必ず絶対の幸福に救ってみせる。
そして、わが浄土に生まれさせてみせる。
もしできなければ、私は仏にならないぞ。
だから聞いてくれよ、信じてくれよ、
必ずお前を助けてみせる、
どうか、南無阿弥陀仏を聞いて受け取ってくれ、
という、阿弥陀仏の命をかけた、重ねてのお誓いなのです。
このように命がけのお誓いを、
阿弥陀仏が重ねてなさってくだされたなればこそ
信ずる心も念ずる心もないこの親鸞が
今、救われることができたんだ。
信ずる心も阿弥陀仏からいただいた。
まったく阿弥陀仏の独りばたらきであったんだ。
と、そのご恩を親鸞聖人が喜ばれ、
私たちに教えられ、讃嘆なされているお言葉です。
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
普放無量無辺光 (普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王 (無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智恵光 (清浄・歓喜・智恵光)
不断難思無称光 (不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹 (超日月光を放ちて塵刹を照らす)
一切群生蒙光照 (一切の群生、光照を蒙る)
目次
•阿弥陀仏の12の偉大なお力
•(1)無量光
•(2)無辺光
•(3)無碍光
•(4)無対光
阿弥陀仏の12の偉大なお力
これは「普く無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智恵光、
不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹を照らす、
一切の群生、光照を蒙る」と読みます。
29歳で阿弥陀仏の本願によって絶対の幸福(往生一定)に
救い摂られた親鸞聖人は、
正信偈の最初に
「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、
親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞ」
と記され、今ハッキリ救われるのが
阿弥陀仏の本願であることを明らかにされています。
ではどうして親鸞聖人は、絶対の幸福に救われたでしょうか。
親鸞聖人は
「親鸞がえらくて救われたのではないのだ、
ひとえに阿弥陀仏の偉大なお力あればこそ救われたのだ」
と、阿弥陀仏の偉大なお力をあげておられます。
お釈迦さまは、
阿弥陀仏のお徳に十二あると
『大無量寿経』に説かれています。
これを「十二光」と言います。
「光」とは仏様のお力を「光」で表されます。
師である阿弥陀仏のお徳を
弟子であるお釈迦さまが、
十二通りに教えられているのが「十二光」です。
それが次の十二です。
(1)無量光
(2)無辺光
(3)無碍光
(4)無対光
(5)光炎王光
(6)清浄光
(7)歓喜光
(8)智慧光
(9)不断光
(10)難思光
(11)無称光
(12)超日月光
この「十二光」を普く放って、
「塵刹」とは、大宇宙に数え切れないほどある
地球のような世界のことですから、
「塵刹を照らす」とは、
私たちの住む世界を照らしていらっしゃる、
ということです。
「一切の群生」とは大宇宙の生きとし生けるものすべて、
「光照を蒙る」ということは、
その光の中に生きている、
阿弥陀仏のお力を受けている、
その偉大な阿弥陀仏の光明の照育によって
真の救いに導かれているのだ、
ということです。
(1)無量光
まず1番最初の「無量光」とは、量に限りのないお力、
阿弥陀仏には、限りなきお力があるということです。
阿弥陀仏のお力は計り知れない、底がない。
あの人はあんなことをやっているから
助からないのではないだろうか
と思うのは、
阿弥陀仏が無量光の仏であることを
疑っているということです。
私たちがどんな罪を造ろうが
それを助ける力が阿弥陀仏にある
ということが「無量光」ということです。
もし阿弥陀さまが
これくらいまでの罪なら助けるけれど、
これ以上は助けることはできないぞと
お力に限界があれば、
限界を超えたことをやれば、助からないということです。
親鸞聖人は、
願力無窮にましませば
罪業深重も重からず
と言われています。
「願力無窮にましませば」とは、
阿弥陀仏のお力に限りがないからということです。
「罪業深重も重からず」とは
どんなことをした者でも重くはない、
助ける力があるのだよ。
お前たちのやる罪や悪業が、
どんなに深くても重くても、
必ず助ける。
そんなもの軽いものだ。
阿弥陀仏のお力に限りがないから
すべての人は救われるのだ、
ということです。
それを阿弥陀仏の力に底を入れて
いやあんなことしている者は助からないだろうと
阿弥陀仏の無量光を疑っている。
その本願に対する疑いを破るために、
それは間違いだぞ
阿弥陀仏のお力は限りがないのだぞ、
と教えられているのが、
1番目の無量光です。
(2)無辺光
2番目の「無辺光」とは
地球上はもちろん、この大宇宙どこにいても
阿弥陀仏の光は届いている。
阿弥陀仏のお力が
行き渡らないところは大宇宙のどこにもない
ということです。
大宇宙は大変広く、光の速さで何十億年進んでも、
まだ先があります。
そんな所にも、阿弥陀仏の光は届いているのです。
ですから、ここにいたら助からないのではなかろうか
という所はありません。
大宇宙のどこにいようが、
阿弥陀仏のお力は行き届いている。
私たちがどこにいても、
阿弥陀仏の光は照らしてくだされて、
必ず救い摂って、
無碍の一道へ出させようとしておられる。
この働きを「無辺光」といいます。
(3)無碍光
3番目の「無碍光」とは、
阿弥陀仏の光をさえぎるものはない
一切のものを通す光だということです。
阿弥陀仏のお力をさまたげるものは何もない。
その力を邪魔することは誰もできないのです。
太陽の光は、山があれば、
その後ろに影ができます。
太陽光は、さわりがあれば
それを通す力がないということです。
ところが阿弥陀仏のお力は、
何ものも邪魔することができない、
どんなさわりもさわりになりません。
だからどんな罪の重い者でも助けてくだされる
救うことができるお力だ、ということです。
もしあんな恐ろしい罪を造った者は助けられない
ということになれば
その罪によってさえぎられる力ということになります。
心でこんなことを思っていたら助からないのではなかろうか
こんな罪の重い者は助からないのではなかろうか
と思うのは、阿弥陀仏のお力が「無碍光」だということを
知らないということです。
その疑いを破るために、
阿弥陀仏のお力は、どんなものもさえぎることのできない
「無碍光」だと教えられているのです。
この「無碍光」に救われるから
救われた人は、何ものもさわりとならない
無碍の一道へ出られるのです。
(4)無対光
4番目の「無対光」とは、
阿弥陀仏のお力は、比較するものがない
ということです。
最高無上、唯一、絶対のお力ですから、
比較するものは、大宇宙にありません。
だからこの阿弥陀仏に救われたら
救われた人の喜びは、
なにものも比較するものがない
絶対の幸福になれるのです。
親鸞聖人が、
「こういうお力をもたれた仏だから、
大宇宙の諸仏に見捨てられたこの親鸞を
助けてくだされることができたんだ」
と阿弥陀仏の威神力ををほめたたえられているお言葉です。
無碍無対光炎王
無碍無対光炎王 (無碍・無対・光炎王)
目次
•(5)光炎王光
•6つの迷いの世界
•迷いを離れられるたった1つの世界とは?
•人間界に生まれるのはどれ位難しい?
•人間界に生まれるたねまきとは?
•なぜ私たちが人間に生まれられたのか?
(5)光炎王光
5番目の「光炎王光」とは、私たちを
人間界に生まれさせようという働きです。
お釈迦さまは、
人身受け難し 今已に受く
と説かれています。
「人身を受ける」とは、
人間に生まれることですが、
それは非常に難しいことだというのが、
「人身受け難し」ということです。
ですから「人身受け難し 今已に受く」とは、
その生まれがたい人間界に、
私たちが今、生を受けたということは、
大変有り難い、喜ばねばならないことだ、
ということです。
6つの迷いの世界
私たちは、今日まで、
地獄界や餓鬼道や畜生界、
修羅界や人間界、天上界
という6つの迷いの世界を
遠い過去から果てしなく、生まれ変わり死に変わり、
生まれては死に生まれては死に、
生死を繰り返してきたのだと説かれています。
そしてこれからも、
ちょうど車の輪が回るように、
これらの迷いの世界を
ぐるぐるぐるぐる限りなく回り続けるのだと
教えられています。
これを仏教で「六道輪廻」と言われます。
迷いを離れられるただ1つの世界とは?
この果てしない苦しみ迷いの輪廻から出ることを
「出離」と言いますが、
仏教を聞いて、阿弥陀仏のお力によらなければ、
この六道を出離することはできません。
ですから、仏教を聞ける世界でなければ、
この迷いを離れることはできないのですが、
この6つの迷いの世界の中で
仏教を聞けるのは人間界しかありません。
天上界は楽しみが多くて仏法が聞けませんし、
地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界では、
苦しみが多くて仏法が聞けません。
仏法が聞けるのは、苦しみと楽しみが相半ばする
人間界だけなのです。
それで、人間に生まれたということは、
長い長い過去から、ぐるぐるぐるぐる回ってきた
苦しみ迷いの世界を出離する
めったにやってこないチャンスですから、
「人身受け難し 今已に受く」
生まれがたい人間に生まれたことを喜ばねばならないと
お釈迦さまは教えられているのです。
ところが、人間界に生まれることは、
大変難しいと説かれています。
人間界に生まれるのはどれ位難しい?
お釈迦さまは
人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし(涅槃経)
と説かれています。
「人趣」とは人間界、
「三途」とは、地獄・餓鬼・畜生の3つの苦しみの世界を言われます。
「十方」とは、大宇宙のことですから、
地獄や餓鬼や畜生の三悪道に生まれる者を大宇宙の砂の数ほどだとすれば、
人間界に生まれる人は、爪の上にのせられた砂ほどだと
教えられています。
地獄、餓鬼のことはひとまず置いて、
畜生界の数だけでも、
どれだけあるか分かりません。
地球上だけでも大変なものです。
その中、人間に生まれたということは、
いかに大変なことか分かります。
ですから、約千年前、
日本の源信僧都は、
まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。
(源信僧都『横川法語』)
と言われています。
「三悪道」とは地獄・餓鬼・畜生の
3つの苦しみの世界です。
これら三悪道に生まれずに、人間に生まれたことを喜びなさい
ということです。
またお釈迦さまは他にも、
人間に生まれる難しさを
目の見えないカメが海の底にいて
百年に一度浮かび上がって
大海の波間をただよっている丸太の穴から
頭をひょいと出すことがあるだろうか。
とても考えられないだろう。
人間に生まれるのは、それ以上に難しいのだよ、
と教えられています。
迷い苦しみの世界の中で
人間界に生まれるということは、
非常に有り難い、ほとんどないことなのだ
ということです。
では私たちは、その生まれがたい人間に
どうして生まれることができたのでしょうか。
人間界に生まれるたねまきとは?
仏教では、人間に生まれるには、
因果の道理にしたがって、
人間に生まれるたねまきをしていなければ生まれられないと
教えられています。
では人間に生まれるたねまきとは何かといいますと、
蓮如上人は、それを御文章に分かりやすく教えられています。
それ人間界の生を受けるということは、
まことに五戒をたもてる功力によりてなり。
これおおきにまれなることぞかし。
(蓮如上人『御文章』2帖目7通)
「五戒」をたもった功徳によって
人間に生まれられる
と仏教で教えられているのですが、
「五戒」とは五つの戒律のことです。
1.生き物を殺さないこと
2.盗みをしないこと
3.みだらな男女関係をもたない
4.うそをつかない
5.酒を飲まない
の五つです。
では私たちは、こんなことを過去に
守り通すことができたのでしょうか?
このような戒律は、
とても守れるものではありません。
それにもかかわらず、どうして私たちは、
人間界に生まれることができたのでしょうか。
なぜ私たちが人間に生まれられたのか?
それは阿弥陀仏の光炎王光というお力が
あったからです。
私たちが人間に生まれることができたのは、
阿弥陀仏が、私たちを人間界に生まれさせて、
苦しみ悩みの世界から抜け出すチャンスを与えてやりたい
という光炎王光の働きによって、
大地の砂ほどの数の中に入らないで
爪の上の砂ほどの中に入ることができた、ということです。
阿弥陀仏が、人間界へ送り出して、
苦しみ迷いから離れるという
人生究極の目的を知らせ、果たさせてやろうと
果てしなく遠い過去から、
一生懸命になってくだされているんだ
ということです。
それにはまず人間界に生まれさせなければ
助けることはできないと、
生まれさせてくだされたのが、
光炎王光の働きです。
ですから、私たちが
何のために人間に生まれて来たのか
何のために生きているのか、
人生の目的は、迷いの打ち止めをして、
未来永遠の幸福になるためです。
ですから、生まれがたい人間に生まれたということは、
迷い苦しみとの縁を絶ちきる、またとないチャンスです。
お釈迦さまが
人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、さらに
いずれの生に向ってか、この身を度せん。(お釈迦さま)
「生まれ難い人間に生まれた今、仏法を聞き、
人生の目的を果たさねば、いつ果たすというのか。
永遠のチャンスは今しかない」
と、言われているように、
人間界に生を受けた今しか六道から離れるチャンスはありません。
今生に、親鸞聖人と同じく阿弥陀仏の救いにあわせて頂くところまで、
仏法を聞かせて頂きましょう。
清浄歓喜智恵光
清浄歓喜智恵光 (清浄・歓喜・智恵光)
目次
•(6)清浄光
•(7)歓喜光
•(8)智慧光
(6)清浄光
阿弥陀仏の十二のお力の中で、
6番目の「清浄光」という働きは、
私たちの三毒の煩悩の中でも
「貪欲」を照らす働きです。
「貪欲」とは、欲の心ですが、
欲というのは汚い心ですので、
欲の深い人を汚い人と言われます。
その欲の心を清らかに、浄めてくだされる
阿弥陀仏のお力が、清浄光です。
「清浄」とは、汚いのと反対で、
清らかということです。
そのきれいな阿弥陀仏の光が、
私たちの汚い貪欲を照らして浄めてくだされるのです。
では、汚い私たちの欲の心が、
阿弥陀仏の清浄光に照らされたらどうなるのでしょうか。
欲がなくなったり、
少なくなるということではありません。
汚い欲の心を照らして、懺悔させる働きです。
親鸞聖人は、
悲しきかな、愚禿鸞、
愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず
恥ずべし傷むべし。(親鸞聖人『教行信証』信巻)
とおっしゃっています。
「悲しきかな」というのは懺悔です。
「愚禿鸞」は、バカでお粗末な親鸞だ、
と、これも懺悔されているのです。
「愛欲」は欲の心、
「名利」も、名誉欲と利益欲という欲の心ですが、
愛欲は広い海のごとくある、
名利は大きな山のごとくある、と言われて、
「恥ずべし、傷むべし」
と懺悔なさっているのです。
このような、恥ずべし、傷むべし
という懺悔が、清浄光の働きです。
愛欲も名利も、欲は少しも減りもしなければ
なくなりもしません。
阿弥陀仏の清浄光に照らされて
恥ずべし、傷むべしの懺悔となるのです。
これが、汚い私たちの欲を、
照らして浄めてくだされる清浄光の働きです。
欲をなくするとか、少なくするということではなく、
懺悔と変わるということです。
(7)歓喜光
7番目の「歓喜光」とは、
三毒の煩悩の中の「瞋恚」の心を照らす働きです。
「瞋恚」とは怒りの心です。
私たちは、自分の思い通りにならない時、
カーッと腹が立ちます。
人のせいで損をしたり、恥をかかせられたと思うと、
いつ爆発するか分かりません。
一たび瞋恚の心に焼かれたら、何をするか分からない、
恐ろしい心です。
その恐ろしい怒りの心を照らし出す働きが
歓喜光ですが、怒りの心が少なくなったり、
腹が立たないようになるのではありません。
恐ろしい怒りの心を恐ろしいと知らせ、
恐ろしいと知らされたら、
懺悔となり、歓喜となります。
「歓喜」とは、歓もよろこび、喜もよろこび、
恐ろしい瞋恚を恐ろしい心と照らして懺悔させ
喜びにしてくださる働きです。
(8)智慧光
8番目の智慧光は、
三毒の煩悩の中の「愚痴」の心を照らす働きです。
愚痴の心とは、ねたみそねみ、うらみの心です。
なぜ他人をねたんだり、うらんだりするかというと、
因果の道理が分からないからです。
因果の道理とは、すべての結果には必ず原因がある。
原因があれば必ず結果が生じる。
平たい言葉でいいますと、
「まかぬ種は生えませんが、
まいた種は必ず生える」ということです。
しかも、この原因と結果との関係は、
善因善果
悪因悪果
自因自果
善いたねまけば、必ず善い結果が現れる
悪いたねまけば、必ず悪い結果が現れる
自分のまいたものしか、自分に現れない。
「結果」とは運命、
「因」とは、行為ということですから
善いのも、悪いのも、自分の運命のすべては、
自分の行いによってつくったもの、
ということです。
仏教では、これが三世十方を貫く道理である
と説かれています。
「三世」とはいつでも
「十方」とはどこでも
絶対変わらない大宇宙不変の真理である
ということです。
この因果の道理が、仏教の根幹です。
この因果の道理が分からない愚かで馬鹿な心を
「愚痴」といいます。
隣に立派なうちができると気持ちが悪くなる。
ところが、隣に立派なうちが立つのは、
隣の人が努力したからで、
自分のうちが立派でないのは、
自分がそんなたねまきしていないからです。
すべて自分のたねまきが現れたのですが、
とてもそうは思えません。
だから隣に立派な家がたつと腹がたつ。
そのために苦しみます。
それは、因果の道理が分からないから
ねたんで、うらんで苦しむのです。
この因果の道理が知る力を「智慧」と言いますから、
智慧光は、私たちに「深信因果」させて、
愚痴を照らしてくだされる働きです。
阿弥陀仏の智慧光によって
無明の闇が破られると、
「深信因果」させられて、
因果の道理がハッキリ知らされますから、
愚痴の心が照らし出されます。
「深信因果」させられて、
愚痴を照らしてくだされるといっても、
愚痴がなくなるとか少なくなるということではありません。
智慧光でねたみそねみの愚痴の心を照らされて
因果の道理が深く知らされておりながら、
ねたみやそねみの心の起きる自分はばかだなあ、
と懺悔となります。
この因果の道理が知らされていなければ
それがどうしたと開き直るだけで
懺悔にはならないのです。
因果の道理、間違いないと深信させられているからこそ、
因果の道理を受けつけない心が照らされて、
懺悔の心が起きるのです。
ねたみやそねみの心が起きてくると、
因果の道理が深信させられていますので、
そんなたねまきだから、そんな結果しか出てこないのに
どうして人をねたむんだ、バカだなあと
懺悔の心になるのです。
これが智慧光の働きです。
このように「清浄・歓喜・智恵光」は、
108の煩悩の中でも最も恐ろしい三毒の煩悩、
欲と怒りと愚痴の心を照らす働きです。
いずれもなくするとか、少なくするという働きではありません。
阿弥陀仏のお力によって、
無明の闇が破られれば、
清浄光・歓喜光・智恵光によって、
欲と怒りと愚痴の心が照らされて、
懺悔となり、歓喜となります。
汚いものを汚いもの
恐ろしいものを恐ろしいもの
愚かな馬鹿なものを馬鹿なものと照らし出して
浄めてくだされる
喜びにかえてくだされる
深信因果させてくだされる
阿弥陀仏の絶大なるお力が、
清浄・歓喜・智恵光です。
不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
不断難思無称光 (不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹 (超日月光を放ちて塵刹を照らす)
一切群生蒙光照 (一切の群生、光照を蒙る)
目次
•(9)不断光
•(10)難思光
•(11)無称光
•(12)超日月光
•すべての人が救われる
(9)不断光
「不断光」とは、
「断」は切れるということですから
途切れることのないお力ということです。
阿弥陀仏の光明は、常に照らしてくだされる、
常に私にかかってくだされている、
ということです。
ですから阿弥陀仏に救われたならば、
親鸞聖人は
憶念の心常にして
仏恩報ずるおもいあり (親鸞聖人)
とおっしゃっています。
「憶」とは時々おもう、
「念」とは途切れることなく思うということです。
「明記不忘」と言って、
明らかに手帳に記したように
忘れるということがないという思いが「念」です。
「憶念の心常にして仏恩報ずる思いあり」
ですから、阿弥陀仏のご恩どう返したらいいか
という心が絶えないということです。
このような心になるのは、
阿弥陀仏に「不断光」の働きがあるからです。
途切れることのない不断光の働きがなかったら、
私たちが憶念の心となって、
夜昼寝ても覚めても仏恩報ずるおもいが絶えない
ということになりません。
そのもとは、この「不断光」にあるわけです。
(10)難思光
「難思光」とは、
想像もできないお力ということです。
親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた世界を、
不可思議・不可称・不可説の信楽
とおっしゃっています。
「不可思議」とは、
思議できない、
想像もできない、ということで、
心が絶えてしまった、ということです。
「不可称」とは、言うことができない、
言葉が絶えてしまった、ということです。
「不可説」も、言葉が絶えてしまいましたから、
説くことができないということです。
ですから「不可思議・不可称・不可説」とは、
想像すらできない、ただただ驚くばかり、
あきれるばかり。
心も言葉も絶えてしまった、ということです。
阿弥陀仏の偉大なお力は、
私たちの想像できるようなものではない。
心も言葉もたえはてて
ああ、というほかない。
そういう想像もできない働きが「難思光」です。
(11)無称光
「無称光」とは、
言うことができないお力のことです。
阿弥陀仏に救われた絶対の幸福は、
不完全な言葉では、言い表すことのできない、
言葉を離れた世界です。
言葉では語れない世界なのですが、
言葉でなければ伝えることはできませんので、
親鸞聖人は、何とか伝えることはできないものかと
言葉を尽くして教えられているのです。
そして最後に親鸞聖人は、
心も言葉も絶え果てて
「不可思議・不可称・不可説の信楽だなあ」
と仰せなのです。
(12)超日月光
「超日月光」とは、
日月を超えた光、ということです。
この世で最高に明るいのが太陽です。
その、この世で最高の光を
はるかに超えるのが、阿弥陀仏のお力だ
ということです。
東條英機は、刑務所に入れられてから
浄土真宗の教誨師から仏教を聞き、
死の直前に
「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に弥陀の光かがやく」
とうたっています。
この世で最も明るい日光も、月光も、
阿弥陀仏の光明は、はるかに超越している
ということです。
すべての人が救われる
このように阿弥陀仏には十二通りの大変な働きがあり、
その十二の広大な光で「塵刹を照らす」と言われています。
「塵刹」とはちりのような世界ということで、
大宇宙に数え切れないほどある地球のような世界のことです。
ですから、阿弥陀仏の光明は、普く大宇宙の
すべての世界を照らしてくだされている
ということです。
次の「一切の群生、光照を蒙る」とは、
だから大宇宙のすべての生きとし生けるもの、
すべての人は、阿弥陀仏のお力を受けている。
阿弥陀仏に救われるところへ向かって
じりじりと引っ張られているのだ、
ということです。
「だから親鸞も、その阿弥陀仏のお力によって
救われたんだ、助けられたんだ」
「親鸞が絶対の幸福になれたのは、
阿弥陀仏にこういう偉大なお力があったからなのだ」
「このような十二通りの
すばらしいお力を持っておられたなればこそ
諸仏が助けることができなかった親鸞を
阿弥陀仏のみが助けたもうたのだ」
「だからあなたも、必ず親鸞と同じように
生きているときに、人生の目的を果たして、
人間に生まれてよかったという喜びの身になれるのですよ」
とおっしゃっているお言葉です。
本願名号正定業 至心信楽願為因
本願名号正定業 (本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因 (至心信楽の願を因と為す)
目次
•ここで親鸞聖人が教えられたかったこと
•名号の働きとは?
•正定聚のすごさ
•どうすれば正定聚になれるの?
•なぜそんなすごい働きがあるの?
ここで親鸞聖人が教えられたかったこと
これは親鸞聖人が、
名号にどんな働きがあるか
を教えられたお言葉です。
「本願の名号は正定の業なり、
至心信楽の願を因と為す」
と読みます。
「本願」とは、阿弥陀仏の本願のことです。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本願」は「誓願」とも言われますように、
お約束のことですから、
阿弥陀仏のなされたお約束ということです。
阿弥陀仏はどんなお約束をなされているかといいますと、
「どんな人も 必ず絶対の幸福に救い摂り、浄土に生まれさせる」
というお約束をなされています。
そのお約束を果たすために、
阿弥陀仏は、約束を果たす力のあるものを
作らなければなりませんでした。
それが「本願の名号」といわれている「名号」です。
「名号」とは、南無阿弥陀仏の六字です。
では、この六字の「名号」には、
どんな働きがあるのでしょうか?
名号の働きとは?
親鸞聖人は次に
「正定の業なり」
と教えられています。
「業」とは、働き、とか、力ということですから、
「本願の名号は正定の業なり」とは、
本願によって作られた名号には、
「正定」にする働きがある、
ということです。
「正定」とは、正定聚のことです。
さとりといいましても、
低いものから高いものまで52あります。
これを「さとりの52位」と言います。
40段目までは「退転位」といって、
がらっと崩れることがあります。
41段より上は「不退転位」といって、
崩れることはありません。
その一番上の52段目が、仏のさとりですから、
「仏覚」といいます。
これ以上のさとりはありませんから「無上覚」ともいいます。
「正定聚」とは、
その一段下の51段目の位をいいます。
何があっても崩れることはありませんから、
「正定聚不退転」とも言われます。
正定聚のすごさ
このさとりの52位は、
1段違えば、人間と虫けらほど境涯が違うといわれる
大変な違いがあります。
いかにさとりを開くのが大変なことかわかります。
禅宗の開祖とされる有名な達磨は、
壁に向かって9年間、
手足がくさって切り落とさねばならないほど
修行したと言われます。
それでも30段程度の悟りであったといいます。
また、中国で天台宗を開いた天台(智ぎ)は、
臨終に10段より下までしか悟れなかったと
告白して死んでします。
今日まで、52段の仏のさとりを開かれたのは、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるように、
地球上ではただ、お釈迦様お一人なのです。
ところが、名号が正定業であるということは、
51段の位まで一念で高飛びさせる力が名号にある
という、驚くべきことなのです。
「正定聚」は「正定聚不退転」とも言われますように、
絶対に崩れることがありませんので、
今日の言葉で「絶対の幸福」と言います。
私たちの幸福は、今日あって明日なき幸せばかりです。
今日の一家団らんも、急に誰か一人事故にあえば、
幸せな家庭が崩壊してしまいます。
そんな、いつ崩れるかわからない幸せばかりだから、
崩れるのではなかろうかという不安が、常にあるのです。
ところが「正定聚不退転」は
崩れることのない絶対の幸福ですから、
名号を頂く一つで、絶対の幸福(浄土往生間違いない身)になれるのです。
南無阿弥陀仏の六字の名号には、
私たちを一念で絶対の幸福にし、
いつ死んでも往生即成仏させる働きがある
ということです。
このことを蓮如上人は、
「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり。(御文章五帖)
と教えられています。
南無阿弥陀仏といえば、
漢字でいえばわずか六字だから、
一念で「正定聚不退転」にするすごい力があるとは
とても思えないだろう。
ところが南無阿弥陀仏の六字の中には、
この上ない、甚だ深い、広大な功徳利益があるのだ。
どんな人をも絶対の幸福にする限りないお力があるのである、
ということです。
名号は、阿弥陀仏が大宇宙の宝を全部おさめて完成されたのです。
どうすれば正定聚になれるの?
阿弥陀仏は、何の為に名号を作られたかというと、
手元で見て楽しむ為ではありません。
私たちに与える為に作られたのです。
名号を私たちが頂くと、信心になります。
これを信楽ともいわれ、信楽の心になれば、
正定聚の身になれます。
名号を娘にたとえると、
娘と結婚できたら、
嫁となります。子供を産みますと
母になります。
名前がかわるだけで、体はかわりません。
娘の時にでべそだったら、
嫁になっても母になってもでべそです。
ちょうどそのように、南無阿弥陀仏は、
阿弥陀仏のお手元にある時は名号といわれますが、
私たちが頂くと、信心(信楽)になります。
お礼の言葉となって
南無阿弥陀仏と称えたら念仏です。
名前は変わりますが、体は一つです。
名
号 娘
\
念 信
母 仏←──心 嫁
ところが、隣にどんなにきれいな娘がいても、
結婚しなければ私と関係ありません。
問題は、結婚したかどうか、
娘を獲得して、嫁となったかどうかが肝要です。
名号がいくら阿弥陀仏のお手元にできあがっていても、
私たちが頂かなければ正定聚にはなれません。
一念で名号を頂いて、正定聚になったのを信心といい、
これを「信心獲得」といわれますが、
一念で名号を受け取ったかどうかが
最も大事なところですので、蓮如上人は
たのむ一念の所肝要なり。(御一代記聞書)
と言われています。
「肝要」とは「要の中の要」ということです。
「要」はいくつかあっても「要の中の要」は、一つしかありません。
これより大事なものはないことを、仏教で「肝要」と言われます。
親鸞聖人の教えの最も大事なところは
名号を頂いて絶対の幸福に救われる
「信の一念」なのだ、
だからはやく、名号を頂いて、
正定聚不退転になりなさい
と蓮如上人は教えられています。
では、どうして名号にそんなすごい働きがあるのでしょうか。
なぜそんなすごい働きがあるの?
それについて親鸞聖人は、次に、
「至心信楽の願を因と為す」
と教えられています。
「至心信楽の願」とは、阿弥陀仏の18願のことです。
「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」
と誓われた阿弥陀仏の本願のことを
親鸞聖人は「至心信楽の願」と言われています。
至心信楽の願を因とするということは、
南無阿弥陀仏の名号は、
阿弥陀仏の本願を設計図として、
それに基づいて作られたのだ
ということです。
船を作るときでも、まず設計図があって、
その設計図にしたがって船が造られます。
設計図と異なる船は造られません。
設計図通りの船が造られます。
本願の設計図が因で、
南無阿弥陀仏は果ということは、
「どんな人も 必ず名号を与えて絶対の幸福(信楽)に救う」
というお約束のとおりに作られた名号だから、
どんな人でも名号をいただけば、絶対の幸福(正定聚)になれるのだ
ということです。
これを「至心信楽の願を因と為す」
と言われています。
親鸞聖人は、
「本願の名号は正定聚にする働きがある、
どうしてそんなすごい働きがあるかというと
至心信楽の願を因としてできあがったからだ。
親鸞が救われたのは、
その本願の通りに作られた名号を頂いたからなんだよ」と
救われたたねあかしを
しておられるお言葉です。
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
成等覚証大涅槃 (等覚を成り大涅槃を証することは)
必至滅度願成就 (必至滅度の願、成就すればなり)
目次
•ここで親鸞聖人は何を教えられたの?
•親鸞聖人の救われた喜び
•阿弥陀仏の救いは2度ある
•死んだらお助けではないの?
•なぜこの世救われた人は未来救われるの?
ここで親鸞聖人は何を教えられたの?
これは、親鸞聖人が、
阿弥陀仏の救いは2度あることを
教えられたお言葉です。
「等覚を成り大涅槃を証することは、
必至滅度の願、成就すればなり」
と読みます。
「等覚」とは、正定聚のことです。
さとりといっても、全部で52の位がありますが、
一番上が仏のさとりですから「仏覚」といいます。
これ以上のさとりはありませんので「無上覚」ともいわれます。
「等覚」はその1段下、あと1段で仏という
51段目のさとりを「等覚」といいます。
これを「正定聚」とも言います。
親鸞聖人は、この世で正定聚に救われた喜びを
このように言われています。
親鸞聖人の救われた喜び
真に知んぬ。
弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。(親鸞聖人『教行信証』)
「真に知んぬ」とは
ハッキリ知らされた
ということです。
これは信じているということではありません。
信じているのと知っているのはまったく異なります。
自分のお父さんは、男だと信じているとは言いません。
男だと知っていると言います。
疑いようがないからです。
親鸞聖人はここで、ハッキリ知らされた、
と言われているのです。
では何が知らされたのでしょうか。
「弥勒大士」とは、弥勒菩薩のことです。
「等覚の金剛心窮むる」とは、
51段のさとりを開いているということです。
「龍華三会の暁」とは、56億7000万年後です。
「まさに無上覚位を極むべし」といわれていますから
51段のさとりを開いている弥勒菩薩も、
56億7000万年後にならないと
仏のさとりは開けない,ということです。
ところが「念仏の衆生」とは、
阿弥陀仏に救われた人ということです。
親鸞聖人は29歳で阿弥陀仏に救われましたから、
親鸞聖人ご自身のことです。
親鸞聖人が、
「横超の金剛心を窮むるがゆえに」
と言われていますのは、
「横超」とは阿弥陀仏のお力のことですので、
阿弥陀仏のお力によって、
一念で51段高飛びして、正定聚の身に救われた。
「親鸞は弥勒と肩を並べる身になった」
ということです。
ところがそれだけではありません。
親鸞聖人は次に
「親鸞は弥勒よりも幸せだ」
と言われています。
なぜなら
「臨終一念の夕」とは死ぬと同時に、
「大般涅槃を超証す」とは
仏のさとりを開くということです。
「弥勒は、56億7000万年後でなければ
仏のさとりが得られないというのに、
親鸞は、今生終わると同時に弥陀の浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
ああ親鸞、阿弥陀仏の本願の尊いことをこのように知らされた」
ということです。
あの弥勒菩薩でさえも、仏のさとりを開くのに
56億7千万年かかると言われるのに、
平生に弥陀に救い摂られた人は、
死ぬと同時に仏覚を開くのです。
これを正信偈では、
「等覚を成り大涅槃を証する」
と言われています。
「大涅槃」は「大般涅槃」のことで、
仏のさとりのことです。
ですから「成等覚証大涅槃」とは、
現在、等覚になった人は、死ねば弥陀の浄土へ往って
弥陀同体の仏のさとりを開くことができるのだ、
ということです。
阿弥陀仏の救いは2度ある
このように、現在と未来の、二度の弥陀の救いを
明らかにされた方が親鸞聖人ですから、
親鸞聖人の教えを「二益法門」といわれます。
「法門」とは教えということです。
生きている時に等覚に救われるのは、
「現世の利益」ですから「現益」と言います。
死んで大涅槃をさとるのは、
「当来の利益」ですから「当益」といいます。
このように、弥陀の救いは
現在と死後の二度あることを
「現当二益」と言われます。
死んだらお助けではないの?
ですから、もし
「この世はどうにもなれない、死んだらお助け」
と言っている人がいれば、
それは親鸞聖人の教えではありません。
このことを蓮如上人は
一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり。(蓮如上人『御文章』)
と教えられています。
「正定聚」とは、51段の等覚のことです。
一念で51段高飛びするのは、
「これは穢土の益なり」ですから
生きている現在のことです。
「滅度」とは仏のさとりです。
「浄土にて得べき益」ですから、
死んでからのことです。
「されば二益なりと思うべきものなり」
弥陀の救いはこの世と未来の二度あることを知りなさい、
死んでからではない、生きている時に救われるのだ
と教えられています。
なぜこの世救われた人は未来救われるの?
ではなぜ、この世で「等覚」になった人が、
死んで「大涅槃」を証することができるのでしようか。
そのことを親鸞聖人は、次に
「必至滅度の願、成就すればなり」
と教えられています。
「必至滅度の願」とは、
阿弥陀仏の十一願のことです。
阿弥陀仏の十一願とは、
阿弥陀仏が四十八のお約束をなされている中の
11番目の願です。
阿弥陀仏は十一願に、
「今救われた人(正定聚の人)は、必ず仏にしてみせる」
とお約束されています。
「今救われた人(正定聚の人)は、必ず滅度に至らせる」
というお約束ですから、
阿弥陀仏の十一願を「必至滅度の願」と言われるのです。
この「必至滅度の願」が成就しているから、
この世で等覚になった人(正定聚の人)は、
死ねば必ず弥陀の浄土へ往って、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりが開けるのです。
ところが、生きているときに等覚にならなければ、
死んでからも助かりません。
この世で等覚になった人だけが、
死んで極楽に往けるのです。
死んで弥陀の浄土へ往って仏のさとりを開くには、
生きているときに等覚にならなければなりません。
平生の救いを抜きにして、死後の救いは望めませんから、
親鸞聖人は、早く正定聚に救われなさい、
今の救いを急げ、と教えられているのです。
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言
如来所以興出世 (如来世に興出したまう所以は)
唯説弥陀本願海 (唯弥陀の本願海を説かんとなり)
五濁悪時群生海 (五濁悪時の群生海)
応信如来如実言 (応に如来如実の言を信ずべし)
目次
•仏教に教えられたたった1つのこと
•お釈迦さまは色々なことを教えられたの?
•お釈迦さまが説かれた、ただ1つのこと
•海にたとえられたのはなぜ?
•阿弥陀仏のなされたお約束とは?
•親鸞聖人からあなたへのメッセージ
仏教に教えられたたった1つのこと
これは親鸞聖人が、
お釈迦さまが仏教に説かれたたった一つのことを
教えられた大変重要なところです。
まず最初の2行は
「如来世に興出したまう所以は
唯弥陀の本願海を説かんがためなり」
と読みます。
「如来」とは、
釈迦如来、お釈迦さまのことです。
約2600年前、インドでご活躍なされ、
今日、世界の三大聖人、二大聖人といわれても、
トップにあげられます。
そのお釈迦様が、
35歳のとき、仏のさとりを開かれて、
80歳でお亡くなりになるまでの
45年間説かれた教えを、
今日仏教と言われています。
仏のさとりといいましても、
何をさとるのかといいますと、
大宇宙の真理です。
大宇宙の真理を仏教で「真如」と言いますから
真如を体得して来たり現れた人を
「如来」といいます。
ですから「如来」は「仏」と同じで、
ここでは釈迦如来、お釈迦さまのことです。
なぜかというと、
次に「世に興出したまう」
と言われているからです。
「世に」とは、この地球上に、
「興出」とは、お生まれになられた、
ということですから、
「世に興出したまう」とは、
地球上にお生まれになられた、
ということだからです。
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるように、地球上で仏のさとりを開かれたのは、
お釈迦さまただお一人ですから、
この「如来」は、釈迦如来のことになります。
次に「所以は」とは、目的はということですから、
「如来世に興出したまう所以は」とは、
お釈迦さまが地球上に現れて、
仏教を説かれた目的は
ということです。
仏のさとりを開かれたお釈迦さまは、
45年間、一切経、七千余巻といわれる
たくさんのお経を説かれました。
それだけ多くのお経を説かれたお釈迦さまは、
色々のことを教えられたのでしょうか?
お釈迦さまは色々なことを教えられたの?
親鸞聖人はところが、
お釈迦さまが地球上に現れた目的は「唯説」であった。
ただ一つのことを説かれる為であった、
と言われています。
「唯」は、2つも3つもない、
ただ1つ、
「説」は、教えられるためであった、
ということです。
これは、お釈迦さまの教説は、
たった一つのことであったのだ、
という大変な断言です。
釈迦の一切経は、
今日で言えば7千冊以上のお経がありますから、
3千冊読んでも、後の4千冊に
何が書いてあるかわかりませんので、
こんな断言はできません。
こんな断言をするには、
一切経をあますところなく読んで、
しかも正しく理解しなければ、
なりません。
親鸞聖人は、
一切経を何度も何度も読み破られての
断言なのです。
「45年間教えられた」とか、
「一切経」「七千余巻」と聞くと、
お釈迦さまは色々なことを教えられたように思いますが、
そうではなかったのです。
ただ1つのことが教えられているのです。
ですから、
そのたった一つのことを聞けば、仏教すべてを聞いたことになり、
それ一つを知れば、仏教すべてを知ったことになるのです。
いかにそれが大事なことか、お分かりでしょう。
ではそれは一体何でしょうか。
お釈迦さまが説かれた、ただ1つのこと
親鸞聖人は、それこそ
「弥陀の本願」だと教えられています。
「弥陀」とは、阿弥陀仏のこと。
阿弥陀如来といっても同じです。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本願」とは「誓願」ともいい、お約束のことですから
阿弥陀仏のなさっておられるお約束のことを言います。
阿弥陀仏とお釈迦さまの関係については、
蓮如上人が『御文章』にハッキリ教えられています。
阿弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり。
(蓮如上人『御文章』)
「三世十方の諸仏」とは、
大宇宙の数え切れないほどの仏方をいわれます。
ですから、大日如来や、薬師如来もここに入ります。
「本師本仏」とは、
「本師」も「本仏」も先生ということですから、
阿弥陀仏は、大宇宙の仏方の先生の仏だ
ということです。
地球に現れたお釈迦さまも、
大宇宙の仏のお一人ですから、
阿弥陀如来とお釈迦様の関係は、
師匠と弟子ということになります。
弟子の使命は、
先生の御心を伝えることだけですから、
お釈迦さまは、一生涯、
阿弥陀仏の本当に願っておられる御心、
本願一つを説かれたのです。
ではその阿弥陀仏の本願を、
「弥陀の本願海」と
親鸞聖人が海にたとえておられるのは
どうしてなのでしょうか。
海にたとえられたのはなぜ?
地上に降った雨は、最後は、海に流れ込みます。
すべての水は、最後、海に入らなければおさまらないように、
すべての人は、最後、阿弥陀仏の本願によらなければ
助からないことを「本願海」と海にたとえられています。
天気のいい日に、山の上を飛んでいる飛行機の中から下を見おろすと
至るところに水たまりがきらきら光っているのが見えます。
池とかダム湖とか湖のようなものです。
そんなところに水がたまっても、一時的で
やがてそこをあふれて水は流れていき、
また、少し下にある水たまりに水がたまります。
そしてしばらくそこにたまっているのですが、
やがてまたあふれて流れていきます。
日本で一番大きい琵琶湖でも、そういう湖の一つです。
琵琶湖に入った水でも、そこでは落ち着きませんので、
また流れ流れて、最後は海へ入ります。
ちょうどそのように、世界にたくさんの宗教があり、
今、キリスト教を信じている人も、
イスラム教を信じている人も、
その他さまざまな宗教を信じている人もありますが、
それでは本当には救われず、
最後は、阿弥陀仏の本願によらなければ助かりません。
これを聖徳太子は、十七条憲法に
四生の終帰、万国の極宗
(聖徳太子『十七条憲法』)
といわれています。
「四生の終帰」とは、
「四生」とは、生きとし生けるものすべてのことです。
「終帰」とは最後、帰依するところという意味で、
生きとし生けるものの救われる唯一絶対の教えである
ということです。
聖徳太子が断言されているように、
古今東西の全人類が救われるたった一本の道が
仏教ですから「万国の極宗」ともいわれているのです。
このように、すべての人は、
最後は仏教によらなければ助からないのですが、
仏教は、阿弥陀仏の本願一つを教えられたものですから、
最後は阿弥陀仏の本願に入らなければ、
虫けら一匹助からないということです。
それで親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を、
「弥陀本願海」と海にたとえておられるのです。
では阿弥陀仏の本願とは、どんなお約束なのでしょうか。
阿弥陀仏のなされたお約束とは?
阿弥陀仏は
「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」
というお約束をしておられます。
絶対の幸福とは
「人間に生まれてよかった」
という絶対変わらない幸せにしてみせる
ということです。
この阿弥陀仏の本願によって、
29歳のときに絶対の幸福に救い摂られた
親鸞聖人は、
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、
超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。
(親鸞聖人『教行信証』総序)
と言われています。
「摂取不捨の真言」も
「超世希有の正法」も
阿弥陀仏の本願のことです。
阿弥陀仏の本願の通り、
絶対の幸福に救い摂られた親鸞聖人が、
「本当だった、まことだった、
弥陀の誓いにうそはなかった。
なんとか早くこの真実、
みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを」
と言われているお言葉です。
親鸞聖人からあなたへのメッセージ
「そのすばらしい阿弥陀仏の本願一つを説かれる為に、
お釈迦様は、この世にお生まれになったんだ。
だから、早くこの弥陀の本願を聞いてもらいたい」
と親鸞聖人は、次に
「五濁悪時の群生海、応に如来如実の言を信ずべし」
とおっしゃっています。
「五濁悪時」とは、
色々と汚れた今日のような時のことです。
子が親を殺し、親が子を殺し、
考えられないようなことばかり起こります。
そんな乱れた時代を
「五濁悪時」と言われます。
「群生海」とは、生きとし生けるものは
海のようにたくさんいますので、
すべての人を「群生海」と言われています。
すべての人よ、
まさに如来如実のことばを信ずべし
「如来如実のことば」とは
「如来」とは、釈迦如来です。
「如実」とは、真実のことですから、
「如実のことば」とは、
真実のことば、まことの言葉ということです。
お釈迦さまのまことの言葉とは、
お釈迦さまが一生涯、ただ一つ説かれた
「阿弥陀仏の本願」のことです。
うそいつわりのない、真実そのままのお言葉だから
それを信じなさいよ、
「まさに如実のことばを信ずべし」
これより他に私たちの救われる道はないんですよ
とおっしゃっている
親鸞聖人のお言葉です。
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
能発一念喜愛心 (能く一念喜愛の心を発せば)
不断煩悩得涅槃 (煩悩を断ぜずして涅槃を得)
目次
•私たちが仏教を聞く目的は?
•人生の目的とは?
•無碍の一道へ出たらどうなるの?
•煩悩は救われたらどうなるの?
•もし煩悩がなくなったら?
•では何も変わらないの?
私たちが仏教を聞く目的は?
これは
「能く一念喜愛の心を発せば
煩悩を断ぜずして涅槃を得」
と読みます。
阿弥陀仏に救われたら、
どこがどう変わるのかを
教えられています。
まず、「能発一念喜愛心」の「能」とは
親鸞聖人は阿弥陀仏のお力、他力のことを
能といわれています。
ですから「能発」とは
阿弥陀仏のお力によっておこされるということです。
「一念」とは、
親鸞聖人は『教行信証信巻』に、
「時剋の極促」といわれています。
「時刻の極促」とは、これ以上はやい時間はない、
時間の極まりを言います。
一念といふは、信心を得る時のきわまりをあらわす語なり。
とも、『一念多念証文』におっしゃっています。
「喜愛心」とは、弥陀の本願に疑い晴れた、喜びの心です。
親鸞聖人は『歎異抄』に
念仏者は無碍の一道なり
と言われています。
「無碍の一道」とは、一切が浄土往生のさわりにならない世界のことです。
阿弥陀仏に救われた者は、
一切が往生の障りにならない絶対の幸福者である
ということです。
「阿弥陀仏の力によって、
一念で喜愛の心がおきれば」と
親鸞聖人が言われているのは、
私たちが、仏法を聞いている目的地は、
この無碍の一道に出ることだということです。
これは、人生の目的であります。
人生の目的とは?
人生の目的とは、なんでしょう。
政治も経済も科学も医学も法律も芸術も
私たちが生きるためにあるもの、いわば生きる手段ですが、
何のために生きるのか
生きる目的は何なのか
ということが、最も大事なことです。
生きることを歩くことにたとえると、
ただ歩きさえすればいいのではありません。
走りさえすればいいのではありません。
歩いたり走ったりするのは、どこかへ行くためでしょう。
飛行機は、飛ぶために飛んでいるのではありません。
目的地に向かって飛んでいるのです。
同じように、私たちは、生きるために生きるのではありません。
生きる目的は何なのか
私たちは、生きてどこへ行くのか、が最も肝心です。
医学は、一分間でも命を延ばそうとしますが、
伸ばした命で何をするのかが、
一番大事なのです。
命が延びた為に、
よけい苦しむとかいうのでは
命を延ばした意味がなくなりますから、
延ばした命で何をするのか
私たちは生きて何をするか
何のために生きるのか
というのが人生の目的です。
生きるということは、大変なことです。
これは毎日身につまされていることですが、
こんなに苦しいのなら死んだ方がましだと
自殺する人もあります。
苦しくても自殺してはいけないのは
何のためなのでしょうか。
政治、経済、科学も医学も、法律も文学も、
より快適に、より長く生きるためにあるのですから、
それらを生かすも殺すも、この目的知るかどうか
人生の目的を果たすか、否かで決する
といっても過言ではありません。
その私たちにとって最も大切な人生の目的は、
「無碍の一道へ出ることだ」と断言なされたのが
実に親鸞聖人なのです。
「無碍の一道」とは、一切がさわりにならない
絶対自由な世界です。
すべての人が生まれて来た目的は、
無碍の一道へ出て
人間に生まれて来たのはこれ一つだった、
よくぞ人間に生まれたものぞという
生命の歓喜をうることだ。
すべての人が苦しくても生きねばならないのは
この人生の目的を果たすためである、
と教導されているのです。
その無碍の一道へ私たちはいつ出られるのか、
どうしたら出られるのかというと、
阿弥陀仏のお力によって一念で出られる
といわれているのがこのお言葉です。
一念とは、これ以上はやい時間のない、極まりを言うのですから、
生きている現在、ただ今の一念に、無碍の一道へ出られる。
阿弥陀仏のお力によって、一念で喜愛心がおきる。
人生の目的果たすことができるのだ、
という大変なことを教えられた1行です。
無碍の一道へ出たらどうなるの?
では、この無碍の一道へ出ると、
私たちはどこが変わるのか、
どこが変わらないのか、
次に「不断煩悩得涅槃」と教えられています。
「不断煩悩」とは、
煩悩を断ぜずして、
ということです。
「煩悩」とは、
私たちを煩わせ、悩ませ、苦しめるものを言います。
108つありますので
108の煩悩といわれます。
除夜の鐘を108つつくのは、
煩悩の数から出ています。
「ああ今年は大変だったな」
「新しい年は今度は幸せになるように」
「煩わしいこと悩ましいこと起きませんように」
と、108つ鐘をついて迎えることになっているのですが
年が明けても、煩悩は相も変わらずです。
その108の中でも、
特に私たちを煩わせ悩ませるものに
3つあります。
・貪欲……無ければ欲しい、有ればもっと欲しいと、際限なく求める欲の心。
・瞋恚……欲が妨げられると、カッと腹が立つ怒りの心。
・愚痴……因果の道理が分からぬところから起きるうらみ・ねたみの心。
この欲と怒りと愚痴が、
私たちを一番煩わせ悩ませるものですから
特に三つの猛毒を含んだ煩悩ということで
「三毒の煩悩」といわれています。
その最初にあげられる、
「貪欲」を大きく5つに分けた時は、
「五欲」といいます。
○食欲……食べたい、飲みたい欲。
○財欲……金や物が欲しい欲。
○色欲……異性を求める欲。
○名誉欲…褒められたい、認められたい、悪口言われたくない欲。
○睡眠欲…眠たい、楽がしたい欲。
無ければないで欲しい欲しい、
有っても有っても、もっともっと欲しいと
私たちは毎日、五欲にひきずられて
煩わされて苦しんでいます。
その欲が邪魔されますと、かっとなって腹が立ちます。
自分の思ったようにならないと怒りが噴き上がります。
ねたみそねみの心で
隣に自分の家より大きな家がたつと面白くない。
嫉妬心でねたんだり、恨んだりしています。
このように、私たちを煩わせ悩ませる煩悩を
私たちは108つも持っています。
このように言いますと、
私たちは、煩悩以外に何かあるように思いますが、
実は私たちは、煩悩以外にありません。
親鸞聖人は、私たち人間を
「煩悩具足の凡夫」と言われています。
「凡夫」とは仏教の言葉で人間のことです。
煩悩具足の人間だということです。
他にも
「煩悩成就の凡夫」とも
「煩悩熾盛の衆生」とも言われます。
「煩悩具足」とは、
煩悩の塊ということですから、
人間というものは
煩悩に目鼻つけたようなものだ、
ということです。
「煩悩成就」は煩悩でできあがっている
ということです。
雪だるまは、雪によってできあがっています。
雪が消えれば雪だるまはなくなってしまいます。
同じように、私が煩悩によってできているということは、
煩悩がなくなったら私は無になってしまう
これが「煩悩成就の凡夫」
ということです。
「煩悩熾盛の衆生」とは、
「衆生」とは人間のことで、
煩悩が盛んに燃えているのが人間だということです。
煩悩のほかに人間はない。
煩悩がなくなったら私というものは
なくなってしまうのだと言われているお言葉です。
そのような、常に私たちを煩わせ悩ませるもので
できているのが人間ですから、
お釈迦さまが「人生は苦なり」と言われているように、
生きることが、大変苦しいことになってくるのです。
徳川家康は
人の一生は 重荷を背負って 遠き道を行くがごとし
死ぬまで重荷を背負って生きねばならない
と言っています。
結局人間は苦しみ悩みの連続であり、
それは死ぬまで続く、それが人の一生である
ということです。
それは、私が煩悩でできているからなのです。
煩悩は救われたらどうなるの?
では、阿弥陀仏のお力によって
一念喜愛の心がおきれば、
その煩悩はどうなるのでしょうか。
「煩悩を断ぜずして」と教えられていますから、
煩悩を断ち切らないで、ということです。
煩悩はなくならない、そのままで、
ということです。
阿弥陀仏に救われて、一念で、
無碍の一道へ出させて頂いたならば、
「欲は少なくなるんだろうな」とか、
「腹が立たないようになるのだろう」とか、
「隣にどんな立派な豪邸が建っても、
そこから頂いた赤飯をおいしく頂けるのだろう」とか、
煩悩が少なくなる、
ひょっとしたらなくなるのではないかと
思っている人がありますが、
それはまったく間違いです。
煩悩は、まったく変わりません。
阿弥陀仏に救われても
「煩悩を断ぜずして」ですから、
煩悩はそのままですよ、
煩悩は変わらないのですよ、
ということです。
欲とか怒りとかねたみそねみは、
無碍の一道へ出ても、なくもならないし、
減りもしないということです。
煩悩が「なくなる」と思っている人は、
それほどいないかもしれませんが、
ほとんどの人は「少なくなるのだろう」と
思っているのではないでしょうか。
無碍の一道へ出る前は
欲の心が100あった貪欲な人が、
90になったとか80になったとか、
少しは無欲になるのだろう。
1日100回腹立てていた怒りっぽい人が、
50回に半減したとか、
少しは温厚になるのだろうと思いますが、
そうはならないということです。
無碍の一道へ出るということは、
煩悩がなくなるとか
少なくなるということとは
まったく違います。
浄土往生のさわりにならなくなる、ということです。
煩悩がいくらあってもさわりにならなければ、
無碍の一道は、絶対の幸福の世界なのです。
それがすべての人が、生きている究極の目的です。
もし煩悩がなくなったら?
もしこの世界に出て煩悩がなくなると
私は煩悩でできているのですから、
私がなくなるということです。
結局、生きてはいられません。
欲がなくなった人間は、
食欲がなくなるので、一切食べる気がない。
財欲がないから、儲けようという気も、働く気もない。
名誉欲もなくなりますから、
人からよく思われたいとも思わない。
睡眠欲もなくなるから、寝ることもなくなってしまう。
無碍の一道へ出たら、
だんだんやせ細って
栄養失調で死んでしまいます。
お金も物も欲しくなくなって、無気力になります。
だんだん働く意欲も減退して、貧乏になります。
名誉欲も減退するので、
人前でも恥知らずなことばかりするようになります。
もしそんなことになるのなら、
あの親鸞聖人のたくましい人生は、
ありえません。
今日「世界の光」といわれる親鸞聖人は、
四方八方から非難攻撃を受けられながら
強く、たくましい生き方を貫かれています。
もし煩悩がなくなったり少なくなったりすると
へなへなな生き方になっていきますので
あのような力強い生き方は、出ようがないのです。
煩悩はそのままで無碍の世界へ出られたからこそ、
あの波瀾万丈の人生をたくましく生き抜かれたのです。
では何も変わらないの?
ところが煩悩が変わらないだけなら、
一念喜愛の心がおきていない人も、
おきた人も同じ、ということになってしまいます。
そんなはずはない。
では一体どこが変わるのでしょうか。
その次に「得涅槃」
涅槃をうるとあります。
「涅槃」とは阿弥陀仏の極楽浄土です。
「涅槃をうる」というのは、
いつ死んでも極楽浄土へ往ける身になる
ということです。
私たちの姿を飛行機にたとえますと
生まれたときが
飛行場を飛び立ったときです。
それぞれ飛び立ってから今日まで
色々なことがあったと思いますが、
今生きているということは、
今も飛行中ということです。
ところが飛び立った飛行機は、
必ず降りるときがきます。
いつまでも飛んではいられません。
やがて、ガソリンが切れて
降りなければなりません。
政治や経済や科学や医学、法律とか、
人間の営みのすべては、
いかに遠くまで飛ぶか、快適に飛ぶか
という飛び方を問題にするものです。
乱気流に入ったらどうするか
台風に出会ったときはどうするか
飛ぶときには、色々対策がいります。
低空で飛べばいいか、
成層圏、高いところを飛べば長く飛べるか、
背面飛行すればいいときもあるだろうし、
飛び方にも色々あります。
これらの飛び方は大事なことですが、
飛行機にとって、いちばん大事なのは、
やがて燃料切れたらどこへ降りるか、
どこへ向かって飛べばいいかという方角です。
燃料が切れたとき、
降りようと思ったら太平洋のど真ん中、
見渡す限り下は海また海で、着陸地がない
となったら墜落あるのみです。
好きな人と結婚できた、
子供ができた、
車を買った、
うちをたてた、
と言っているのは、飛行機の中でのことで、
機内食を食べて、機内販売を買って、
浮かれ騒いでいるようなものです。
その飛行機全体が、
やがて燃料が切れたら墜落しなければならないとなれば、
決して楽しい空の旅にはなりません。
どうしても心から満足できない、
不安な空の旅になります。
それがいつ燃料が切れても、
安全に誘導されて着陸できる場所がハッキリすれば
とても楽しい満足した明るい空の旅ができるのです。
これがハッキリしていないから、
みんな不安で苦しみ悩んでいるのです。
科学が進歩して、
物も非常に豊かになって、
みんな幸せだと思っているでしょうか。
人生の苦しみは少しも変わりません。
政治でも経済でも、科学、医学でも
うめることができない深い不安が
人間の腹底にあるからです。
それは降りるところがない
飛行機の不安と同じなのです。
それが「能発一念喜愛心」
阿弥陀仏の力によって
一念喜愛の心がおきれば
煩悩変わらないままで、
「いつ死んでも極楽参り間違いない」という
得涅槃の身になれるのだと
親鸞聖人はおっしゃっています。
ですから、一念、喜愛の心が起きるまでの人と
起きてからの人と、煩悩は変わらないのですが、
一念喜愛の心が起きない人は、
燃料が切れたらみんな海へ墜落します。
一念喜愛の心が起きた人は
いつ死んでも極楽参り間違いなしとハッキリしている。
ここが違うのだ、だからはやく
喜愛の心が起きる一念まで進みなさいと
親鸞聖人が教えられているのが、この2行です。
それで親鸞聖人は、
この一念喜愛の心が起きる所まで進むのが
人間に生まれてきた目的なのだ。
無碍の一道へ出ることが
人生究極の目的なのだと
教えられているのです。
凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
凡聖逆謗斉廻入 (凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば)
如衆水入海一味 (衆水の海に入りて一味なるが如し)
目次
•無碍の一道へ出たらどうなるの?
•凡聖逆謗とは
•それらの人が……
•無碍の一道へ出たら
•一つの味になるということは?
•人生の目的は人それぞれ?
無碍の一道へ出たらどうなるの?
これは、
「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば
衆水の海に入りて一味なるが如し」
と読みます。
阿弥陀仏に救われて、
無碍の一道へ出たらどうなるか
を教えられた
親鸞聖人のお言葉です。
凡聖逆謗とは
まず「凡聖逆謗」の
「凡」とは凡夫、
「聖」とは聖人、
「逆」とは五逆罪の悪人、
「謗」とは謗法罪を造っている極悪人
ということです。
「凡夫」とは人間のことです。
「聖人」というのは、親鸞聖人の聖人ではありません。
凡夫に対して、ある程度さとりをえて、
凡夫のようなあらっぽい煩悩を出さないようにつとめている人、
自分の心を相当コントロールできる人を
ここで「聖」といわれています。
「五逆罪」とは、
大恩ある親を殺したりする
5つの恐ろしい罪を言います。
その五逆罪を造っている人を
ここで「逆」と言われています。
「謗法罪」とは、
この「法」は仏法のことで、
仏法を謗ったり、非難することをいいます。
仏法は、すべての人が救われる教えですから、
聖徳太子は『十七条憲法』に
四生の終帰 万国の極宗 (聖徳太子『十七条憲法』)
といわれています。
「四生」とは、生きとし生けるものすべて、
「終帰」とは最後、帰依するところという意味ですから、
仏教は、生きとし生けるものの救われる
唯一絶対の教えであるということです。
古今東西の全人類が救われる
たった一本の道が仏教ですから、
「万国の極宗」ともいわれています。
そんな仏教を謗り非難することは、
全人類が救われるたった一本の道を
ぶち壊すことですから、
こんな恐ろしいことはありません。
それは、何十億、何百億、幾億兆の人を
地獄へ突き落とすことになりますから、
親を殺す以上に、最も恐ろしい罪なのです。
その謗法罪を造っている人を
ここで「謗」と言われています。
このように「凡聖逆謗」で、
凡夫か聖人か
五逆罪を造っている悪人か
謗法罪を造っている極悪人かですが、
この中に入らない人はありませんから
「凡聖逆謗」とは、すべての人ということです。
それらの人が……
次に、すべての人が「斉しく廻入すれば」とは、
「斉しく」とは、同じようにということです。
凡聖逆謗、どんな人でも同じようにです。
「廻入」とは「えにゅう」と読みます。
「廻心帰入」の略です。
「廻心」とは、心が回ると書くように、
心がガラーッと変わってしまうことです。
180度心が変わります。
「帰入」とは、阿弥陀仏の本願を海にたとえて
本願の海に入ったことをいいます。
ですから「廻入すれば」とは、
阿弥陀仏に救われたならば、
ということです。
では、どんな人でも同じように、
阿弥陀仏に救われて、
無碍の一道へ出たらどうなるのでしょうか。
無碍の一道へ出たら
次に
「衆水の海に入りて一味なるが如し」
と教えられています。
「衆水」とは色々の水ということで、
色々な川の水のことです。
いわゆる万川です。
大きな川もあれば小さい川もあります。
太い川、細い川、にごった川、色々あります。
「衆水の海に入りて」とは、
それらは最後、必ず海に流れ込みます。
万川が海に流れ込みますから、
数え切れないほど沢山の川が、
海に流れ込んでいます。
海に流れ込むと、それらの川の水は、
「一味なるがごとし」
味が一つになってしまいます。
まったく同じ、塩辛い味です。
一つの味になるということは?
「衆水の海に入りて一味なるが如し」
どんな人でも、
無碍の一道へ出れば、
一味になる。
一つになる。
凡夫も聖人も五逆の人も謗法の人も、
どんな人でも
みんな一つの味になる、
同じ喜びの心になる。
ですからこれは、
800年前の親鸞聖人も、
500年前の蓮如上人も、
現代の私たちも、
今から100年後、200年後、
1000年後の人でも同じです。
また、日本でもアメリカでもインドでも、
地球上どこの人であろうが
みな同じ味になります。
時をこえ、所をこえて
みんなこの聴聞の一本道を進んで
無碍の一道へ出ると、
同じ喜びの心になる。
阿弥陀仏に救われた人は、
まったく同じ無碍の一道へ出る。
まったく違いのない絶対の幸福になるんだ。
老いも若きも、
頭のいい人も悪い人も
一切の人が差別なく、
一味平等になる世界が無碍の一道だと
教えられています。
人生の目的は人それぞれ?
このように人生の目的は、
人それぞれのものではなく、
万人共通唯一の世界なのです。
人それぞれのものは、
趣味とか生きがいで、
人生の目的ではありません。
趣味や生きがいは、
その人その人によって異なります。
みんな違ってみんないいのです。
ところが人生の目的は、
どれだけ多くの人があっても
共通してただ一つです。
そのただ一つの目的は、
無碍の一道へ出ることです。
無碍の一道という万人共通唯一の世界に出て、
人間に生まれてよかったという
絶対の幸福になることが、人生の目的だと
親鸞聖人は教えられています。
これ一つ果たすために、
どんなに苦しくても
生き抜かなければならないのです。
このように親鸞聖人は、
人生の目的は万人共通唯一のものだという
真実を明らかにされるために
正信偈で朝晩、
「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば
衆水の海に入りて一味なるが如し」
と教えられているのです。
摂取心光常摂護
摂取心光常摂護 (摂取の心光は常に摂護したまう)
目次
•常に照らし護られる身になれた
•私たちが生きている目的は?
•どうして人生の目的達成できたの?
常に照らし護られる身になった
これは
「摂取の心光は常に摂護したまう」
と読みます。
「親鸞は摂取の心光に常に照護される身になった」
と言われているお言葉です。
摂取の心光に、常に照らし護られる身になったとは、
阿弥陀仏のお力に、常に照らされ、護られる身になった
ということです。
「そういう常照護の幸せな身に、親鸞はなりました」
と言われているお言葉です。
阿弥陀仏のお力に常に照らされ護られたなら、
一切がさわりでなくなりますから、
「無碍の一道」といわれます。
親鸞聖人は『歎異抄』に
念仏者は無碍の一道なり
と言われています。
阿弥陀仏に救われて、常照護の身になった人を
「念仏者」といわれ、
そういう人は「無碍の一道」に出るのだ、
と言われています。
「無碍の一道」の
「無碍」とは一切がさわりにならない、
「一道」とは世界です。
無碍の一道へ出れば、
一切、浄土往生のさわりになるものがありませんから、
変わることのない絶対の幸福です。
私たちが生きている目的は?
私たちの幸福は、
いつ崩れるか分からない幸福です。
夕べまでは一家団欒の幸せな家庭が、
明くる日は交通事故で地獄になります。
昨日まであった幸福は
いとも簡単に崩れてしまいます。
今幸せだと喜んでいる状態は
まさに噴火山上でダンスをしているようなもので
いつ足もとから噴火するか分かりません。
そんな、今日あって明日なき、続かない幸福を、
相対の幸福といいます。
親鸞聖人が無碍の一道と言われたのは
そんな相対の幸福ではなく、
常に変わらない、絶対の幸福です。
この身になることこそが、
すべての人の生きている目的です。
私たちは、苦しむために
生まれて来たのでもなければ
生きているのでも、今から
生きていくのでもありません。
人が生まれて来た目的、
生きている目的、
今は苦しいけれども死んではならない
生きねばならない目的は、
無碍の一道へ出ること。
無碍の一道へ出て、
絶対の幸福になるためです。
阿弥陀仏のお力に常に照らし護られる
絶対の幸福の身になることが、
本当の生きる目的なのです。
「摂取の心光は常に摂護したまう」とは、
「親鸞は幸せにも、摂取の心光に常に摂護される
絶対の幸福の身になれた」
ということです。
これが本当の生きる目的ですから
「人生の目的を達成できた」
と言われているお言葉です。
どうして人生の目的達成できたの?
そこで私たちは、
「どうして常に摂護される身になれたんですか?
私も絶対の幸福になりたいんですが、
どうすればなれるんですか?」
と聞きたくなります。
親鸞聖人は、それに対して、
「親鸞、常摂護の身に救われたのは
摂取の心光によってなのだ」
と言われています。
では
「摂取の心光」とはどういうことかといいますと、
「摂取の光明」のことです。
「光明」とは、阿弥陀仏のお力のことです。
阿弥陀仏のお力とは、
どんな人をも無碍の一道へ出す、
そして生まれて来た目的を果たさせるという
という偉大なお力です。
そのお力に大きく分けて2つあります。
「遍照の光明」と
「摂取の光明」の2つです。
まず
「遍照の光明」の
「遍照」とはあまねく照らすということです。
すべての人間は勿論、
生きとし生けるものすべて
照らされていないものはありません。
すべての生きとし生けるものを
仏教ではそれらを「十方衆生」といいますが
十方衆生をあまねく照らして差別がないのです。
この遍照の光明に照らされていないもの、
この阿弥陀仏のお力のかかっていないものは、
絶対にありません。
この十方衆生にかかっている遍照の光明は、
どのような阿弥陀仏のお力かといいますと、
なんとしても無碍の一道へ出させようというお力です。
何とかして無碍の一道へ出させてやりたい
そして人生の目的を果たさせてやりたい
常摂護の絶対の幸福の身にしてやりたい
という阿弥陀仏のお力です。
この遍照の光明のお力によって
今まで仏とも法とも知らなかった私たちが、
仏法を聞かずにおれなくなります。
遍照の光明によって私たちは照育されていきます。
阿弥陀仏のお力によって、どんな人も
聴聞の一本道を進ませて頂いて、
変わって行くのです。
親鸞聖人が、
「摂取の心光によって人生の目的達成できたんだ」
と言われていますのは、
遍照の光明によって、長い間照らされ、育てられて、
一念でがちっと摂め取ってくだされる。
無碍の一道へがっちりとおさめとって
常に絶対の幸福に生かしてくだされる。
それをここでは「摂取の心光」と言われています。
「遍照の光明」は「色光」とも言われ、
それに対して「摂取の光明」を「心光」と言われます。
ですから
「摂取の光明」といっても
「摂取の心光」といっても同じです。
親鸞聖人は、
「この摂取の心光によって無碍の一道へ出られたんだ、
だから人生の目的達成できたのは
弥陀の摂取の心光によって、
常に摂護される親鸞になれたんだ」
と言われているのです。
これは親鸞聖人だけでなく、
誰もが遍照の光明に照らされ、誘引されて、
聴聞の一本道を進ませて頂いて、
一念で摂取の心光にあうのです。
そして常に照らし護られる、
無碍の一道に出させて頂ける。
人生の目的を、達成させて頂くのです。
阿弥陀仏の光明は十方衆生にかかっていますから
みなこの道を通ります。
そして無碍の一道に出ることができるのです。
一日もはやく親鸞聖人と同じ、常摂護の身になれるように
真剣に聴聞させて頂きましょう。
已能雖破無明闇
「已能雖破無明闇」と言われているお言葉の、
「破無明闇」
とは、「無明の闇を破す」と読みます。ここで親鸞聖人は、
「人生の目的は、無明の闇を破ることである」
と、明らかにされているのです。
●なぜ生きる●
私たちは何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、どんなに苦しくても、なぜ自殺してはいけないのか。これが「人生の目的」であり、平易な言葉で「なぜ生きる」です。
政治も経済も、科学も医学も、倫理も道徳も法律もスポーツも、人間のあらゆる営みは、「より快適に、少しでも長く生きる」ための努力と言えるでしょう。
教育現場では、子供たちの〝生きる力〟を養おうと必死に取り組みがなされています。CO2の削減目標を高く設定し、エコカー減税やエコポイントを導入したのは、「地球環境を守り、生命を存続させるため」でしょう。
では、どうして命を守らねばならないのか。強く生きて何をするのか。私たちは一体、なんのために生まれ、生きるのか。この「生命の尊厳」「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな政策も技術の進歩も、水面に描いた絵に終わってしまうのではないでしょうか。
「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はありません。『正信偈』にはズバリそれを、
「破無明闇」(無明の闇を破ることだ)
と、断言されているのです。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元である『無明の闇』を破り、〝よくぞこの世に生まれたものぞ〟の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
聖人、九十年のメッセージは一貫して、これしかありませんでした。すべての人の最も知りたい「なぜ生きる」の答えを、鮮明にされた方が親鸞聖人ですから、世界の光と言われるもうなずけます。
では「無明の闇」とは、何か。これを正しく知ることが、生涯かけての最大事になってくるのです。
●苦しみの根元「無明の闇」とは●
「無明の闇」とは、分かりやすく言えば、「死後どうなるか分からない、後生暗い心」のこと。「後生」とは死後のことで、私たちの百パーセント確実な行く先です。禅僧・一休は、
「世の中の娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで婆と散りゆく」
と歌いました。女性は、娘から嫁、嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん進んでいきます。お婆さんが嫁になったり、嬶が娘になったり、という逆行はない。男も呼び名が違うだけで、すべて同じコースをたどります。だんだんと体力は衰え、病気がちになり、ケガもしやすくなり、物忘れが進み、気力も萎えてくる。どんなに美容整形を施してみても、悲しいかな、避けられないのが「老い」です。
だが、老後で終わりではありません。「散りゆく」と一休が言うように、必ず死んでいかねばなりません。しかも、いつ死ぬか分からない。
年金がちゃんと満額もらえるのか、多くの人が制度に不安を感じていますが、それは「受給年齢まで生きておれる」ことを前提にしてのこと。その年になる前に、事故や病気であっさり死ぬこともある。早ければ今晩かも知れません。
では、死んだその先は、どうなっているのでしょうか。
死んだら天国とか極楽とか言うけれど、本当だろうか。楽しいところへ往けるような気もするけど、ひょっとして暗いところかも……。
「死ぬ」ことを、よく「他界」といわれます。〝この世とは違う、他の世界に行く〟ことですが、他の世界とはどこなのか、ハッキリしているでしょうか。いろいろ想像はしても、確証はない。〝千の風になる〟と言われても、ピンとこない。〝死んだら死んだ時だ〟と強がってみても、どうもスッキリしない。〝死後は無になる〟の信念にも、根拠がない。心はなんだかぼんやりしています。
気楽に考えている人は「念仏さえ称えておれば極楽へ往けるのだろう」と淡い想像をし、自己を真面目に見つめている人は「こんな私は暗い世界へ行くのではなかろうか」と恐れおののく。「でも、そこはお慈悲な阿弥陀さま、なんとかしてくださるだろう」と希望を抱きもする。
いずれにしても、ハッキリしていない。どこへ行くかも分からないまま、一日一日、着実に後生に向かって突き進んでいる。これが、紛れもない私たちの現実ではないでしょうか。
死を遠くに追いやっている間は気づかなかったが、ひょっとして今晩かもと、死を凝視して魂を後生へと送り出してみると、なんとも言えぬ不安な、恐ろしい戦慄を覚える。崖っぷちから千尋の谷底をのぞき込んでいるような薄気味悪い、真っ暗な心が胸一面を覆います。
たとえ命永らえて二十年、三十年生きたとしても、過ぎてしまえばアッという間です。一瞬で「後生」に入って行く。その「後生」がどうなっているかハッキリしない暗い心を「無明の闇」といわれ、この闇こそが、人生を苦に染める元凶なのだと、親鸞聖人は断定されているのです。そして、この「無明の闇を破る」ことが、人生の目的であることを、
「破無明闇」
と漢字4字で仰っているのです。
已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧
常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜
即横超絶五悪趣
一切善悪凡夫人
聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者
是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏
邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯
無明の闇を破る
【親鸞聖人】
「阿弥陀如来は、無明の闇といって、すべての人々の苦しみのもとである、後生暗い心を一念で破ってくだされ、絶対の幸福に救うと、誓われている。これを、阿弥陀如来の本願と申します。
その阿弥陀如来のお約束通り、絶対の幸福になることこそが、なぜ生きるかの答えなのです」
(『世界の光・親鸞聖人』第4部)
【根拠】
「已能雖破無明闇
(已に能く無明の闇を破すと雖も)」(正信偈)
『世界の光・親鸞聖人』第4部で、親鸞聖人が日野左衛門に人生の目的を説示なされる場面 がある。
親鸞聖人「ところで日野左衛門殿。どう生きるかも大切だが、なぜ生きるかは、もっと大事だとは、思われませんか。どう歩くかよりも、なぜ歩くかが、もっと大事ではありますまいか」
日野左衛門「なぜ生きる……」
親鸞聖人「さよう。皆、どう生きるかには一生懸命だが、なぜ生きるか、を知りませぬ 。のお、日野左衛門殿。それだけ皆、一生懸命生きるのはなぜか。それこそ、最も大事ではなかろうか」
人は何のために生まれてきたのか、なぜ生きているのか、どんなに苦しくても生きねばならぬ のは何をするためか
歩く、走る、泳ぐ、飛行機が飛ぶ……、どんな場合も、目的地を定め、それから手段を考えるであろう。
タクシーに乗った時を思い出せば分かりやすい。運転手に最初に告げるのは目的地である。「どこどこの何番地にある○○まで行ってほしい」と行き先を伝え、その後、「三つ目の交差点で信号を左に曲がって、突き当たりを右に行き……」と行き方を教えるのではないか。目的地を伝えずにただ「走ってくれ」と言ったならば、運転手を困惑させ、いたずらに時間と金銭を浪費してしまうだろう。
人生もまた然り。ただ生きるだけならば、苦しみの連続で終わってしまう。
日野左衛門「なぜ歩くかが分からねば、歩く苦労は、無駄か……。なぜ生きるかが、分からねば、生きる苦労も、また無駄 か……。そう言われれば……、そうだ。俺は、一生懸命生きることが、一番いいことだと思っていたが……、なぜ生きるかの一大事を、俺は忘れていたのか……」
親鸞聖人「それをハッキリ教えられたのが、仏法を説かれた釈尊なんですよ」
日野左衛門「エエッ!そんな教えが……、仏法……?」
親鸞聖人「そうです。お釈迦さまは仰せです。大宇宙には、数多くの仏さまがおられる。それらの仏が、本師本仏と仰がれるのが、阿弥陀如来です」
日野左衛門「阿弥陀如来……」
親鸞聖人「阿弥陀如来は、無明の闇といって、すべての人々の苦しみのもとである、後生暗い心を一念で破ってくだされ、絶対の幸福に救うと、誓われている。これを、阿弥陀如来の本願と申します。
その阿弥陀如来のお約束通り、絶対の幸福になることこそが、なぜ生きるかの答えなのです」
人生の目的は何か、ズバリ教えられている。なぜ生きるかの答えは、苦しみのもとである無明の闇を破ること。だから卒業があり、完成がある。親鸞聖人はそれを『正信偈』に、「已能雖破無明闇」と示された。「已能雖」が、卒業、完成の意。「已に破れた」、と明らかである。
では、全人類の苦悩の根源、無明の闇とは何か。
後生暗い心、死んだらどうなるかハッキリしない心。死後は有るのか、無いのか。有るなら、どんな世界か、一切分からない。後生真っ暗がりの心である。
未来が暗いと現在も暗くなる。百パーセント確実な未来後生が真っ暗がりだから、現在も常に不安で、何をやっても心から喜べない。この無明の闇がある限り、生命の歓喜などあろうはずがない。
人間に生まれてよかった!という生命の大歓喜が体験させられるのは、阿弥陀如来の本願によって無明の闇をぶち破っていただき、絶対の幸福に摂取せられた時である。この世界に出るために我々は仏法を聞くのだ。
万人が求めてやまぬなぜ生きるかの答えを開顕してくだされた親鸞聖人は、まさに「世界の光」である。
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
どうして「後生暗い心」が苦悩の根元なのか。疑問に思う人もあるでしょうが、未来暗いとどうなるか。墜落を知った飛行機の乗客を考えれば、よく分かるでしょう。
小説や映画でたびたび描かれる「日航機墜落事故」は、一九八五年八月十二日、羽田発大阪行きの日本航空123便が、群馬県御巣鷹の尾根に墜落炎上し、五百二十名が亡くなる惨事でした。発見された遺書には、
「恐い 恐い 恐い 助けて 気もちが悪い 死にたくない」(26歳女性)
「もう飛行機には乗りたくない」(52歳男性)
と、悲痛な心境がつづられていました。墜死だけが恐怖なのではない、悲劇に近づくフライトそのものが、地獄なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなる。現在が暗いのは、未来が暗いからです。死後の不安と現在の不安は、切り離すことができないことがお分かりでしょう。
●無明の闇を破す、阿弥陀仏の本願●
後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、できる道理がありません。すべての人が苦しみから離れ切れないのは、「お金がないから」でも、「病気だから」でもない、「こんな人と結婚したから」でもなければ、「隣にこんな人が住んでるから」でもない、後生暗い「無明の闇」こそが苦しみの根元なのだと、本師本仏の阿弥陀仏は見抜かれて、こう約束なされています。
「すべての人の『無明の闇』を破り、『往生一定』の大満足の身に救ってみせる」
このお誓いが「阿弥陀仏の本願」です。「本願」とは「誓願」ともいわれ、約束のこと。あの有名な『歎異抄』の一章冒頭に、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
と言われている「弥陀の誓願」とは、この「阿弥陀仏の本願」のことです。
「往生一定」とは、疑いなく浄土へ往く身になったことで、蓮如上人は「往生は治定せしめたもう」(聖人一流の章)とか、『領解文』にも「往生一定・おん助け治定」と言われています。「一定」も「治定」も、ハッキリしたこと。一切が浄土往生のさわりにならないから「無碍の一道」(歎異抄第七章)とも聖人は言われています。今日の言葉では、「絶対の幸福」といえるでしょう。
その絶対の幸福に、平生の一念、必ず救い摂る、という凄い約束を阿弥陀仏はなされているのです。大宇宙広しといえども、私たちの後生暗い心(無明の闇)をぶち破ってくだされるのは、本師本仏の阿弥陀仏だけなのだと、親鸞聖人は、
無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり (浄土和讃)
と仰っています。意味はこうです。
「阿弥陀仏には、全人類の苦悩の元凶である無明の闇(後生暗い心)を破り、往生一定の大安心に救い摂るお力があるから、大宇宙のすべての仏や菩薩方が、〝智慧光仏〟と弥陀を絶賛されているのである」
この弥陀のお力によって、「後生暗い心」がぶち破られて、「往生一定」に救い摂られたことを、
「已能雖破無明闇」
「弥陀の誓願力によって(=能く)、無明の闇が破られた」
と言われ、『正信偈』冒頭の、
「帰命無量寿如来(親鸞、弥陀に救われたぞ!)
南無不可思議光(親鸞、弥陀に助けられたぞ!)」
の宣言も、聖人自らこの「弥陀の救い」に遇われた魂の絶叫なのです。
●無明の闇が晴れたら、どうなる●
では、無明の闇が破られて、往生一定に救い摂られたならば、どうなるのか。「人生の目的」を成就すると、どう変わるのでしょうか。
「とらわれない生き方」になるのか。「しがみつかない生き方」に変わるのか。執着心の無い、ひょうひょうとした生きざまになるのだろうか。欲や怒り、ねたみそねみなどの煩悩は、少しは減って、穏やかな生活ができるようになるのだろうか。
これらの疑問に、親鸞聖人は続けて、
「貪愛瞋憎之雲霧(貪愛・瞋憎の雲霧)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり)」
とハッキリ答えられ、私たちが仏教を聞く目的を、鮮明にされています。
「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。褒められたい、儲けたい、愛したい、愛されたい、まだ足らんと、際限もなく求める心をいわれます。ダイエットや整形に大金を投じ、時には命の危険さえ冒すのも、モテたい、キレイと言われたい、の強烈な願望にちがいありません。
「瞋」は瞋恚、怒りの心。欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心です。ひとたび怒りの炎が燃え上がると、理性も教養もへったくれもなく八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。十八歳の男が、「交際を邪魔されたから」と、恋人の姉を刺殺した事件も、この怒りのなせる業でしょう。
「憎」は憎しみ・うらみの心。因果の道理が分からず、〝オレがこんな目にあったのは、あいつのせいだ〟〝こいつが余計なことを言ったからだ〟〝世間が悪い〟と他人を怨み世を呪い、ライバルの容姿や人気をねたみそねむ、醜い心のことです。
これら欲や怒り・ねたみそねみの心で私たちは、朝から晩まで煩わされ、悩まされ、イライラしてはいないでしょうか。仏教ではこれを「煩悩」といわれ、全部で百八つあると教えられています。
その百八の煩悩を、雲や霧にたとえられて聖人は「貪愛瞋憎の雲霧」と言われ、次の「真実信心の天」とは、無明の闇が晴れた「後生明るい心」のこと。その天を、欲や怒りの雲霧が「常覆(常に覆っている)」とは、「途切れる間がない、一杯である」ことですから、この三行は、
「弥陀に救われて『無明の闇』が無くなっても、
欲や怒り・ねたみそねみの『煩悩』は、
減りもしなければ無くもならない、まったく変わらない」
と、驚くべきことを喝破されているお言葉です。
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
この「煩悩」と「無明の闇」の違いを正しく知らなければ、親鸞聖人の教えは絶対に分からず、弥陀の救いには遇われません。だからこそ聖人は、『正信偈』に峻別して教えておられる。
ところが、専門外の作家が間違うならまだしも、相当の真宗学者でもこの「煩悩」と「無明の闇」の区別がなされておらず、ごちゃまぜに論じているものがほとんどですから、違いを知るのは大変です。多くの人の仏教観が、こうなるのも当然でしょう。
「阿弥陀仏に救われたならば、欲が減って、何事にも淡泊になるのではないか。今まで一日に十回腹を立てていた人は、忍耐力がついて、五回か六回になるのだろう。執着を離れてひょうひょうとした生き方になるのではないか」
これが常識ですから、それに反する言動を見聞きすると、
「あんたは仏教を聞いているのに、少しも欲が減らないじゃないの」
「腹立ててばかりいるし。聞く前とちっとも変わってない。それで仏教聞いているといえるの?」
「そんなことでは仏教を聞く意味なんてない!」
と非難までする。これは「無明の闇」と「煩悩」との違いが分からず、仏教の目的を完全に誤解しているから。すなわち、
「仏教を聞く目的は、煩悩を減らすことだ」「欲や怒りをコントロールできるようになることだ」と、カンカンに思い込んでいるのです。
そこで聖人は、この「無明の闇」と「煩悩」との違いは簡単に分かることではないからと、さらに譬えを重ねて、
「譬如日光覆雲霧 譬えば、日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧之下明無闇 雲霧の下、明かにして闇なきが如し」
〝雲や霧で天が覆われていても、日光で、雲霧の下は明るくて闇がないように、どんなに煩悩に覆われていても、弥陀の智慧の太陽で、心は明るく浄土に遊んでいるように楽しいのだ〟
と解説されています。「日光」とは「太陽」のこと。「弥陀に救い摂られた『後生明るい心』」を、「太陽の光によって闇が無くなった、明るい天」に譬えられているのです。
この懇ろな聖人の教導でお分かりのように、「昼」と「夜」とでは、「雲霧が天を覆っている」状態は同じでも、「日光」の有無によって、全く異なるのです。
「夜」(=「日光」が出ていない間)は、天を覆う「雲霧」も見えないし、「闇」が「闇」とも分かりません。まして、「闇が晴れた明るい世界」など知るよしもないでしょう。
それが、「昼」(=「日光」で「闇」が晴れた)ならば、「闇」が「闇」と知らされ、天を覆う一杯の「雲霧」も、「闇の無くなった明るい世界」も、ハッキリするのです。
これが「夜」と「昼」との違いです。「雲霧」は関係ありません。「日光が出ていないか、出たか」で、全く別世界なのです。
同様に、弥陀に救われる前(無明の闇のある間)は、欲や怒りの「煩悩一杯」も分からなければ、「無明の闇」を「闇」とも分かりません。
ところが、ひとたび、弥陀の智慧の太陽(日光)によって「無明の闇」が照破されたならば、欲や怒りの「煩悩一杯」の自己も、「往生一定」の自己も、ハッキリ知らされるのです。
「雲霧の下、明らかにして闇なし」
は、その自覚を言われたお言葉です。
私たちの本懐成就のポイントは、欲や怒りの煩悩にあるのではなく、「無明の闇が晴れたか、どうか」にあることを、巧みなたとえで説かれているお言葉と知られるでしょう。
●「無明の闇」と「煩悩」のちがい
阿弥陀仏の目的は、私たちの欲や怒りの煩悩を減らしたり無くすることではありません。もしそうなら、弥陀に救われた人は、夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、誰かにいきなり頭たたかれても、腹も立たないということになります。おかしいとすぐ分かるでしょう。
弥陀の救いは「無明の闇(後生暗い心)を照破すること」なのです。
聖人は九歳で仏門に入って二十年、比叡山での日々は、まさに煩悩との格闘でした。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。思ってはならぬことが思えてくる。考えてはならぬことが浮かんでくる。恐ろしい心が噴き上がる。どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。このままならば、釜の中の魚の如く、永久の苦患は免れぬ。忍びよる無常の嵐に火急を感じ、「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」と下山を決意。間もなく、法然上人に邂逅され、
『凡夫』というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心、多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止まらず消えず絶えず (一念多念証文)
〝人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない〟
苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされて、「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」に救い摂られたのが、聖人二十九歳の御時のことでした。
それから九十歳でお亡くなりになるまで六十一年間、この「弥陀の救い」ひとつを、すべての人に知らせたいと、「煩悩」と「無明の闇」との違いを『正信偈』に峻別され、
「欲や怒りの煩悩は、死ぬまで無くならぬ。仏教を聞く目的は、後生暗い『無明の闇』を破ること一つなのだ。聞き誤ってはならないよ」
と朝晩、訴えておられるのです。
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
初めに「獲信(信を獲る)」と言われているのは、「信心獲得」のことです。
すでに重ねて述べてきたように、『正信偈』冒頭の二行、
「帰命無量寿如来(親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
南無不可思議光(親鸞、不可思議光に南無いたしました)」
これは、
「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ!
親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ!」
という、「弥陀に救われた」聖人の歓喜の告白です。この「阿弥陀仏に救われたこと」を、仏教の別な言葉で「信心獲得」とか「信心決定」、あるいは「信を獲る」とも言われ、『正信偈』のここでは、二字で「獲信」と言われているのです。
では、「信心獲得」「信心決定」「獲信」とは、私たちがどうなったことでしょうか。続けて蓮如上人にお聞きしましょう。
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」(御文章)
これは「信心獲得の章」といわれる『御文章』の冒頭です。初めにズバリ、
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり」
〝信心獲得するとは、第十八の願を心得ることなのだよ〟
と言われています。
「第十八の願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が、四十八の約束をされている中の十八番目のお約束のこと。「十八願」ともいわれます。阿弥陀仏が本心を誓われている願であり、王本願ともいわれる、弥陀の命です。ゆえに「阿弥陀仏の本願」といえば、この「十八願」のことなのです。一言で、こう約束されている本願です。
「すべての人は、助かる縁手がかりのない極悪人である。
『南無阿弥陀仏』を与えて、必ず絶対の幸福に助けてみせる」
この第十八の願を、「心得る」とは、
「『ご本願の通りでございました』と疑い晴れたこと」です。
では、それはどういうことか、蓮如上人は続けて、
「この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
と、懇ろに解説されています。
●ナムアミダブツって、なに?●
世間では、「南無阿弥陀仏」といえば〝魔除けのマジナイか〟くらいに思われていますが、本当の意味を蓮如上人にお聞きしましょう。
「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。
〝『南無阿弥陀仏』といえば、わずか六字だから、そんなに凄い働きがあるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸せにする大変な働きがあるのである。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである〟
「(南無阿弥陀仏には)さのみ功能のあるべきとも覚えざるに」
とは、
〝助かる縁手がかりのない極悪人を、絶対の幸福に救う働きがあるとは、誰も思えないだろう〟
ということです。〝猫に小判、豚に真珠〟といわれるように、ネコに小判を与えてもニャンとも喜ばないし、ブタの鼻先に真珠をぶら下げても、ブーとも言わない。見向きもせずエサに顔を突っ込むだけでしょう。それは、小判や真珠に値が無いからではない、それらの値を知る智恵が、ネコやブタにはないからです。
同様に、〝『南無阿弥陀仏』に、それほど凄い働きがあるとは思えない〟のは、六字の名号に「値がないから」ではない、「値を知る智恵が、我々にない」からなのです。
『南無阿弥陀仏』のもの凄い働きを知られた蓮如上人は、
「無上甚深の功徳利益の広大なること、極まりがない」
と言われています。これは無論、蓮師の「こう思う」という私見や、根拠のない独断ではなく、釈迦・親鸞聖人のご教導の通り知らされられての明言です。
お釈迦さまは『大無量寿経』に、
「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう」
〝大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほどの仏方が、異口同音に、阿弥陀仏の作られた名号(南無阿弥陀仏)の不可思議な大功徳を褒め讃えておられる〟
と説かれています。
阿弥陀仏は、なぜ、このような大功徳のある名号を作られたのでしょうか。一体、誰のために、どのようなご苦労をなされて、「南無阿弥陀仏」を完成されたのか。その「名号のいわれ」を親鸞聖人は、こう述べておられます。
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり」(教行信証)
〝すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿弥陀仏)を完成されたのである〟
十方諸仏の悲願に漏れて、捨て果てられた私たちを、本師本仏の阿弥陀仏だけが、「我ひとり助けん」と立ち上がられ、五劫の思惟と兆載永劫のご修行という大変なご苦労をなされて成就されたのが、『南無阿弥陀仏』であるから、この六字の名号の中には「無上甚深の功徳利益(=どんな極悪人をも、絶対の幸福に救い摂る働き)」があるのだよと、釈迦も親鸞聖人も蓮如上人も、一貫して教えておられることがお分かりでしょう。
「『南無阿弥陀仏』のすがたを心得る」
と蓮如上人が言われているのは、
「その『南無阿弥陀仏』を弥陀から賜って、〝助かる縁なき極悪の私を、救いたもう無上甚深の大功徳であった〟と、ハッキリ知らされた」ことであり、これを「信心獲得した」というのだと、蓮如上人は、
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」(御文章)
と言われているのです。
『正信偈』の初めに聖人が、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
〝阿弥陀仏に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀仏に親鸞、助けられたぞ!〟
と表明されているのは、この『南無阿弥陀仏』の大功徳を弥陀から賜って、絶対の幸福に救い摂られたことであり、
「獲信見敬(信を獲て見て敬い)」
とおっしゃっているのも、全く同じ意味です。
次に「大慶喜する」とは、
「この信心をうるを『慶喜』という」(唯信鈔文意)
と聖人の教示されているとおり、「慶喜」は「信心」を表す異名ですから、
「獲信見敬大慶喜(信を獲て見て敬い大慶喜すれば)」
の一行で、
「信心獲得したならば」
「阿弥陀仏に救われたならば」
と言われているのです。
●迷いの世界と縁が切れる●
弥陀に救い摂られたならば、どうなるのか。次に、
「即横超截五悪趣(即ち横に五悪趣を超截す)」
と、これまたとてつもないことを言い切っておられます。
「即ち」とは、同時に。「横に」とは、阿弥陀仏のお力によって。
「五悪趣」とは、五つの苦しみの世界ということで、「地獄界、餓鬼界、畜生界、人間界、天上界」の五つの迷いの世界をいわれます。(※註・「六道」の中の「修羅界」を「人間界」に含めて言われたもの)。私たちの魂は一人一人、これら迷いの世界を生まれ変わり死に変わり、果てしなく経巡ってきたことを親鸞聖人は「多生」「億劫」「昿劫」「微塵劫」と説かれ、『歎異抄』には「久遠劫より流転せる苦悩の旧里」と言われています。
阿弥陀仏に救い摂られたならば、その流転の絆が断ち斬られて、二度と迷わぬ身になることを、
「五悪趣を超截する」
と言われているのです。死ねば必ず弥陀の浄土へ往ける身になるからです。
ゆえに、
「獲信見敬大慶喜(信を獲て見て敬い大慶喜すれば)
即横超截五悪趣(即ち横に五悪趣を超截す)」
と、親鸞聖人が朝晩仰っている二行は、
「弥陀から『南無阿弥陀仏』を賜って信心獲得(獲信)すると同時に、昿劫流転の迷いを一念で断ち切られ、『往生一定』の絶対の幸福に救い摂られるのだ。我々はそのために人間に生まれてきたのであり、仏教を聞く目的も、この外に何にもないのだよ」
と、一日も早い「信心獲得」を勧めておられるお言葉です。
片時も急いで、弥陀の本願を聞き開かせていただきましょう。
一切善悪凡夫人~是人名分陀利華
一切善悪凡夫人 一切善悪の凡夫人、
聞信如来弘誓願 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏言広大勝解者 仏は広大勝解者とのたまい、
是人名分陀利華 この人を分陀利華と名けたもう
『正信偈』の冒頭に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と叫ばれた聖人は、その「弥陀の救い」を明らかにされて最後に、
「道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説」
「すべての人よ、この親鸞と同じように、早く阿弥陀如来に救われてもらいたい」
と結んでおられます。『正信偈』を書かれた聖人の目的は、私たちが「弥陀に救われること(信心決定)」一つであったことが分かります。この度お話する四行も、その御心は、
「あわれあわれ、存命の中に、みなみな信心決定あれかし」
の外に何もなかったことを確認した上で、解説を進めましょう。
まず「一切善悪の凡夫人」とは、「すべての人」のことです。男も女も老いも若きも、善人も悪人も、この中に入らない人は一人もありません。「どんな人も」ということです。次に、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
と言われている「如来の弘誓願」とは、「阿弥陀如来の本願」のこと。本師本仏の阿弥陀如来が、
「すべての人を
平生の一念
必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓われているお約束を、「如来の弘誓願」と言われています。
大宇宙には、地球のお釈迦さまはじめ、大日如来や薬師如来、ビルシャナ如来など無数の仏方がましまして、それぞれに本願を持っておられますが、中でも、
「すべての人(十方衆生)と、約束する」
と、差別なく誓われている阿弥陀如来の本願のことを、「弘誓願(広い誓い)」と言われるのです。
「聞信」とは、露チリ程の疑いも無くなったこと。ですから、
「如来の弘誓願を聞信する」
とは、弥陀の本願通りに「絶対の幸福」に救い摂られて、
「弥陀の本願まことだった、まことだった、ウソではなかった!」
と疑い晴れたことを言われるのです。これを「信心決定」とも「信心獲得」とも言われ、また「獲信」と言われることも、先月お話ししました。これでお分かりのように、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
の二行は、
「どんな人も、
阿弥陀如来に救い摂られたならば」
といわれているお言葉です。
●阿弥陀仏に救われたら、どんないいことがあるの?●
では、弥陀に救われたら、どうなるのでしょうか。信心決定すると、なにかいいことがあるの? 私たちが知りたいことについて、親鸞聖人は続いて、
「仏言広大勝解者(仏は広大勝解者とのたまい)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)」
と明言され、
「凄いいいことがあるのだよ、早く信心決定して、この幸せよろこぶ身になってもらいたい」
と勧めておられるのです。
ここで「仏」と言われているのは、「十方諸仏」のことです。大宇宙にまします無数の仏方のことで、『阿弥陀経』には、東西南北上下のそれぞれの方角に、インドのガンジス川の砂の数ほど(恒河沙数)の仏方がおられるのだと、具体的な名前を挙げて紹介されています。それら無数の仏さまが、弥陀に救い摂られた人を、
「貴方は『広大勝解者だ』『分陀利華じゃ』と褒め讃えて下される」
といわれています。
「広大勝解者」とは仏教の大学者、「分陀利華」は、千年に一度しか咲かない白蓮華のことで、滅多にない素晴らしいことを表します。親鸞聖人はこの四行で、
「どんな人も、阿弥陀仏に救われたならば、大宇宙の無数の仏方から、『あなたは仏教の大学者だ』『滅多にない尊い人だ』と称賛される身になるのだよ」
と言われているのです。
●ほめられると、うれしい●
私たちは朝から晩まで、どんなことを考えているでしょうか。頑張って生きようとするモチベーションは、何でしょう。人それぞれ、いろいろありましょうが、中でも「褒められたい」、これが大変強いのではないでしょうか。評価されたい。実力を認められたい。若く見られたい。キレイと言われたい。モテたい。朝起きて、何を着ていくか、誰とどんなことを話すか。何から何までその行動基準は、「どうしたら他人からよく見られるか」が大きいでしょう。
そして実際に褒められると、どんな気持ちになるでしょう。子供に褒められてさえ、気分がよくなります。「お前なんかにどう言われても、どうってことないよ」と思っている相手からでも、また、お世辞だとは百も承知でも、やはり褒められると嫌な気がしないのが、私たちですね。まして、自分の尊敬する方から賛辞を頂けばなおさらです。「よし、もっと頑張ろう!」と元気が出ます。「どんな困難も乗り越えてゆくぞ」と、勇気が湧いてきます。
このように、人から褒められることも凄い元気と勇気の出ることなのですが、親鸞聖人は『正信偈』のここで、
「阿弥陀仏に救われた人は、
大宇宙の仏さま方から、褒められる身になるのだよ」
と、とてつもないことをおっしゃっているのです。「仏さまから褒められるって?どういうこと?」あまりにも日常からかけ離れているのでピンと来ない、という人もあるでしょうが、これは『教行信証信巻』にも、
「金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何ものをか十とする」
〝阿弥陀仏に救われた人は、死んでからではない、現在生きている時に、十の幸せを頂けるのだ〟
とおっしゃっている五番目に、「諸仏称讃の益」を挙げられて、
「大宇宙のすべての仏方に、褒められる幸せを頂けるのだ」
と言われています。その褒め言葉は、『正信偈』に言われている「広大勝解者」「分陀利華」の他にも、お釈迦さまは、
「すなわち我が善き親友なり」
と、「親友」とまでおっしゃってくださり、また「上上人だ」「無上人(最高の人だ)」「妙好人(妙なる好ましい人だ)」「希有人(めったにない、珍しい人だ)」「最勝人(もっとも勝れた人だ)」など、仏さま方から種々の褒め言葉で称讃されるのですから、勇気百倍、生きる力が沸々と湧いてくるのです。
弥陀に救い摂られてからの、あのたくましい親鸞聖人の生きざまは、一体どこから出てくるのだろうか、と首をかしげる人も少なくありませんが、「迷った人間から何を言われても親鸞、眼中にない。大宇宙の仏さまから褒められる身になったのだからなあ」と、「諸仏称讃の益」に生かされている自覚からにちがいありません。
●たくましき生きざま●
親鸞聖人の生涯は、激しいものでした。波瀾万丈という言葉は、聖人の生きざまを表すためにある、と思えるほどです。「たくましき親鸞」といわれるそのご一生には、どんなことがあったのか。弊社のアニメ「世界の光親鸞聖人」全六巻に詳しく描かれていますが、一例を挙げれば、三十五歳の「肉食妻帯」でしょう。
当時の仏教界では、僧侶には固く禁じられていた「戒律」があり、中でも大きな二つが「肉食」と「妻帯」でした。「肉食」とは、生き物の命を奪ってその肉を食べること、「妻帯」は結婚することです。出家した仏弟子たるもの、これを犯してはならない。「肉食妻帯」した者は僧侶ではない。これが伝統的な仏教であったのです。
その戒律を親鸞聖人は公然と破られ、肉食妻帯を断行されました。
当然「あいつは堕落した」「戒律を破った破戒僧だ」と非難の嵐は巻き起ころう。だが、肉食妻帯が十方衆生(全人類)の姿ではないか。仏の慈悲は苦あるものにおいて偏に重し。欲や怒りの煩悩にまみれ、罪の重い者ほど殊に哀れみたもうのが仏さまではないのか。まして本師本仏の阿弥陀仏の救いに、差別があろうか。肉食妻帯の者が助からない仏教が、本当の仏教といえるか。「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」、男も女も、在家も出家の者も、あるがままの姿で救われるのが真実の仏教なのだ。この弥陀の本願真実を明らかにするためならば、どんな嘲笑罵倒も物のかずではない、と御身をもって示された破天荒の言動が、親鸞聖人の肉食妻帯であったのです。
案の定、聖人には、仏教界は無論、一般大衆からも、「あれで僧侶か」「堕落坊主じゃ」「仏教を破壊する悪魔の坊主だ」「仏法の怨敵じゃ」と非難中傷が浴びせられ、八方総攻撃の的となられたのでした。肉食妻帯だけでなく、三十四歳の三大諍論も、三十五歳の越後流刑も、四十過ぎから二十年間の関東ご布教も、八十四には長子善鸞を勘当も、疑謗の嵐の中を、たったお一人突き進まれた方が、親鸞聖人であったのです。
どうしてそんなことができられたのでしょうか。普通なら意気消沈するところ、その勇気はどこから出ているのか。
大宇宙の諸仏方から「親鸞、あなたは広大勝解者だ」「滅多にない白蓮華のような方だ」と称讃されている自覚から、迷った人間のどんな罵倒も聖人には、牛の角に蚊が刺したほどにも思われなかったのでしょう。
●弥陀の本願、聞き開けよ●
では、地獄より行き場のない極悪の私を、弥陀に救い摂られたならば、どうして大宇宙の仏方がかくも褒めて下されるのでしょうか。
諸仏も釈迦も、その使命は、宇宙の真理「因果の道理」を説き、三世因果を教え、「後生の一大事」を知らせて、その後生の一大事解決してくださる方は本師本仏の阿弥陀仏しかないから、
〝阿弥陀仏一仏に向け、本師本仏の阿弥陀仏を信じよ〟と、
「一向専念無量寿仏」
を教え勧めること以外にはありませんでした。その勧めに順って、阿弥陀仏に救われた人は、弥陀の弟子になったともいえる、さすれば大宇宙の仏方にとっては、まさに「我が親しき友」であり、また一切経を身体で読み破った大学者(広大勝解者)であり、それは滅多にない人(分陀利華)だと、褒め讃えてくだされるのです。
褒められたい一杯の私たちが、「仏さまから褒められる身になれるのだよ」と聞けば、早くそうなりたい、と思いますね。
「親鸞と同じように、阿弥陀仏に救われてもらいたい」
これ以外に、『正信偈』を書かれた目的のなかった親鸞聖人が、
「誰でも仏さまから褒められる大変な身になれるのだよ。この親鸞と同じく、諸仏称讃の益をいただける身に早くなってくれよ。それには、如来の弘誓願を聞信すればなれるのだから、片時も急いで、如来の弘誓願を聞信しなさいよ」
と勧めておられるのです。
●聞信●
そこで大事なことは、
「如来の弘誓願を聞信する」ことだとお分かりでしょう。
「如来の弘誓願を聞信すれば、このような身になれるが、
如来の弘誓願を聞信しなければ、こうはならないのだよ。
だから早く、如来の弘誓願を聞信しなさいよ」
ということだからです。
そこで、「如来の弘誓願を聞信する」とはどんなことか、親鸞聖人からお聞きしましょう。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり (教行信証信巻)
「聞」=「信」ですから、これは、
「『聞』と言うは……」
とは、
「『聞信』とはどんなことかというと」
ということです。
「それは、『仏願の生起本末』をきいて、『疑心有ること無し』となったことを『聞信』というのだ」
と教導されています。
「仏願」とは、阿弥陀仏の本願のことであり、「如来の弘誓願」のこと。
「生起」とは、建てられた、「本末」とは、その一部始終、ということですから、「仏願の生起本末」とは、
「阿弥陀仏は、なぜ本願を建てられたのか。誰のため、何のために、どんな約束をなされているのか。その誓いを果たすために、どのようなご苦労をなされているのか。その結果、どうなったのか。その本から末まで、すべて」
ということです。その「仏願の生起本末」を聞いて、「疑心有ること無し」と疑い晴れたのを、
「如来の弘誓願を聞信する」
というのだ、といわれているお言葉です。
●「疑心」といっても、二つある●
ここで、「疑心」といわれていますが、仏教では「疑心」といっても二つあることを知らねばなりません。すなわち、晴れる疑心と、絶対に無くならない疑心とがあるからです。
絶対晴れない疑心とは、品物を疑ったり他人を疑ったりする心で、煩悩の一種です。例えば、込んでいる電車の中で、変わった動きをしている人を見て、「あの人、私の金を狙っているスリではなかろうか」と疑ったり、「これはダイヤモンドだ、と言われて買ったけど、ホンモノだろうか」とか、「明日の天気は大丈夫だろうか、予報では晴れると言うが、ホントかな」というように、人や物、天気などを疑う心です。このような疑心は、死ぬまでなくなりません。
親鸞聖人がここで「疑心」と言われているのは、それらの疑心とは違います。「仏願の生起本末(如来の弘誓願)」に対する疑心のみを言い、「疑情」とも言われます。「本願疑惑」とか「仏智疑惑」「不定の心」「二心」「三世の業障」とお聖教にあるのも、すべて「仏願の生起本末」を疑う、この心のことです。この疑いこそ、私たちを苦しめる元凶なのです。(詳しくは、「還来生死輪転家 決以疑情為所止」)
この疑心は、一念で無くなります。一念とは、アッという間もない時間の極まり、何兆分の一秒よりも短い時間。その一念で、「仏願の生起本末」に対する疑心が無くなったことを、親鸞聖人は、
「疑心有ること無し」
と言われているのです。
●「有ること無し」と「無し」の違い●
「疑心無し」でなく、「疑心有ること無し」と言われているのは、どういうことでしょうか。実は、「無し」と、「有ること無し」では、意味が異なります。その違いを例えで言いましょう。
どうしてもお金が要ることになったが工面できず、友人に借りに行った。「どうか、百万円、貸してもらえないだろうか」
「百万円?悪いけど、そんなお金無いよ」と、彼は答えた。
この場合、「今は無い」ということで、後日、有るようになるかも知れません。こういうのは、「無い」です。
ところが、次に借りに行ったら、今度は「百万円、有ること無しだよ」と言って断られた。これはもう、いつ借りに行っても「金輪際、無い」ということ。百万円が「有る」ということが「無い」、ということだからです。こうなると、あきらめるしかない。その友人には、何十年経っても、百万円が絶対にないからです。
親鸞聖人が、ここで「疑心有ること無し」と言われているのは、「仏願の生起本末」に対する疑心が、金輪際無くなったことであり、蓮如上人はこれを、『御文章』の至るところで、
「ツユチリ程の疑心も無し」
といわれているのです。
これを「聞」といわれ、同時に「信心決定」とハッキリ救い摂られますから、この時を「聞即信の一念」とか「聞信」と言われているのです。
その身に救い摂られた人は、大宇宙の仏方から、「仏教の大学者じゃ、分陀利華だ」と褒め讃えられる身になれるのだよ、だから早く、「如来の弘誓願に、疑心有ること無し」と疑い晴れるまで、火の中かき分けても聞き抜けよ、と教え勧めておられるお言葉が、
が、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者とのたまい)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)」
の四行なのです。
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
弥陀仏本願念仏 弥陀仏の本願念仏は
邪見驕慢悪衆生 邪見驕慢の悪衆生、
信楽受持甚以難 信楽受持すること甚だ以て難し
難中之難無過斯 難の中の難これに過ぎたるは無し
「弥陀仏の本願」とは、
「どんな極悪人も、 平生の一念に、必ず絶対の幸福に救い摂る」
と約束なされている、「阿弥陀仏の本願」のことです。この本願の通りに、「絶対の幸福」に救い摂られて称える念仏を、
「弥陀仏の本願念仏」
と言われています。
弥陀仏の本願に救われたことを、この後に、「信楽受持」とも言われているのです。これを「獲信」とも「信心獲得」とも言われることは重ねてお話ししてきました。
そして、それは大変に難しいことなのだと、
「信楽受持すること、甚だ以って難し」
と仰っています。「甚だ以て難し」とは、非常に難しい、と言うことです。
では、どれほど難しいかというと、次に、
「難の中の難、斯れに過ぎたるはなし」
「斯れ」とは、前の行の「信楽受持」のことですから、
「世の中に難しいことは色々あるけれども、信楽受持(信心獲得)することより難しいことはない」
といわれているお言葉です。
よく浄土真宗では、「他力だから易行じゃ、無条件じゃ、何もせんでいい、そのままのお助けじゃ」と嘯いている人が少なくありませんが、親鸞聖人は、朝晩の『正信偈』に、
「阿弥陀仏に救われることは、極めて難しい。これ以上難しいことはない」
と、常に教えておられます。
では、それはどうしてなのか。なぜ「信心獲得」することが、それほど難しいことになるのか。その理由を前の行の、
「邪見驕慢悪衆生」
「邪見驕慢の悪衆生であるからだ」
明示されているのです。
「悪衆生」とは、「悪い人間」ということですが、普通は「悪い人」というとどんな人のことを思い浮かべるでしょう。強盗殺人、婦女暴行、恐喝や詐欺罪、贈収賄罪……などの犯罪者ではないでしょうか。
だが親鸞聖人がここで「悪い」と言われているのは、そのような「犯罪」のことではありません。
「邪見・驕慢」の者を、「悪衆生」と言われているのです。
そこで、「邪見」「驕慢」とはどんなことか。誰のことなのでしょうか。
●邪見・驕慢●
「邪見」とは、「邪に見る」ことで、「正見」の反対です。
「正見」とは仏教の言葉で、「ありのままに見る」こと。誤魔化さず、偏見のフィルターを通さず、白いものは白、黒いものは黒、四角いものは四角いもの、丸いものは丸いもの、と見る、これを「正見」と言われます。
特に仏教では、「自分の本当の姿を、ありのままに見なさいよ」と教えられているのですが、それが中々できない。正しく見れない。
本師本仏の阿弥陀仏が、私の実態を、
「唯除五逆誹謗正法」
(絶対助かる縁手がかりのない逆謗の屍)
と「正見」されているのに、当の本人は、自分をそんな者だとはとても思えない。
「夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」(御文章)
〝大宇宙の全ての仏方が見捨てて逃げたお前だぞ〟
と教えられても、ピンともカンとも驚かない。
このように、邪な見方しかできず、己の実態をまったく知らないのを「邪見」と言われ、だから「なんとかすればなんとかなれる」と自惚れているのを「驕慢」の者と言われているのです。
「然れば、爰に弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり」(御文章)
〝諸仏に見捨てられた極悪の私を、「われ一人助けるぞ」と立ち上がられた阿弥陀如来が、一劫でなし、二劫でなし、五劫もの間、考えに考え抜かれて本願を建てられ、本願どおりに救うために、兆載永劫の気の遠くなるような長い間ご苦労なされて、『南無阿弥陀仏』を成就して下されたのだぞ〟
と聞かされても、千円もらった程も有り難いとは思わない。
この仏智の不思議を計らい、拒否しているのを「邪見驕慢」と言うのです。
このように、後生の一大事、自分の力で何とかすれば何とかなれるという自惚れ心が、腹底にドーンとあって動かない。弥陀の五劫思惟に反抗して、オレはそんな腑抜けでない、と思っているのだから、弥陀の本願に相応しないことを聖人は、
「邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯」
〝古今東西の全人類は、邪見驕慢の悪衆生であるから、
弥陀の本願に救い摂られることが、甚だ難しいのだ。
難しいことは色々あるけれども、信心獲得することほど難しいことは、大宇宙にないのだよ〟
と『正信偈』に朝晩、教えておられるのです。
私が邪見驕慢の親玉でございましたと、如来の御前に五体投地するのは、地獄一定の実機が仏智不思議に生かされた、不可称不可説不可思議の時です。
そこまでひたすらに自己を凝視して求め抜きなさいよ、と言われている親鸞聖人のお言葉です。